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パスカルスタイルでAIを視る

ご無沙汰でございます!
今回はXで投票を取りましたが、抽象的な概念とAIとの結びつきについて最近一人で考えていることがあるので、共有します

最近パスカルの本を読み漁っていますが、私が思うに彼は私の人生の目的である「自分の真理を追求する」姿勢を肯定してくれたことと、深くまで理論を組み立てていくと実際の幸福論はもっと不幸側に存在するということを学びました。

そもそも彼はキリスト教ベースの話をされるので、私の信じる宗教的価値観とを比較して解釈を進めました。

自分の精神状態が良くない時に不幸や苦しみを肯定してくれる。あと自殺すると自殺直前の苦しみのまま身体から断たれる背景などなど

つまり、具体的に私みたいな知の探究心やそこに向かおうとする時、常に律と中心を考えるべきであると、、、、

すなわち自分が優れることはなく、逆にすべて異なることもない。我々がその真実を知らないため、そこを0/100で断定する感覚が1番愚かであり、危険であるということです。我々はこれが正しい・愚かと断定できるほど神に近くはなくそう言える理由を完璧に知ることはできません。なので100%できますほど怖いものはないです。

今作ってるAIツールを開発中でそこでもでてくるワード「信頼水準」ですが、やはり我々は信頼水準を無視できないと思います。絶対こう、という考えは身を投げることになり、常に可能性が高い方法へと舵を切り直す過程のみ、私は信じています。この半年間でもよく、こうすれば安泰やこうすれば間違いなしという声がありますが、もしそうならその期間もリサーチや考察を続けている私の周りの尊敬できる方々の努力は無駄ですか?そうではないことを今証明されつつあるのでは?と思います。「敬意をもって疑い続ける」ことを今年は勉強させていただきました。
さて、確実と不確実の間に無限があるが、不確実にしか永遠はないので(逆に確実という有限)、そこにしか水準より得できる範囲は存在しないと思います。
サラリーマンの給料が所得は確実性・安定性を犠牲にそれ以上の報酬を受け取ることを同時に諦める態度でもあります。なぜなら税金含め有限範囲だからです。※あくまで例えです、自営業や不安定となりやすい業務の不確実性は怖くもあるが同時に有限ではく、それ以上のポテンシャルが内在しています。クリプトをしている時点で、不確実性のメリットはご存知のはずです。

これはよくある、次のドアを開けるかステイするかみたい時に50/50の確率と思いきや、不確実でまだ開けていないドアの方がより期待値がある可能性を棄却できないが、一方で有限は有限のままだから、次のドアを開けるべきいう考えと同じであるわけです。想像できる未来に期待値をベットしたくないのです。

行動力あるひとが成功するプロセスも人よりもこの信頼水準の高さがあるためと考える派が私です。

有限<有限
だけど、
不確実<有限の際の限界<無限
だから
有限の際の限界<無限 の間にある、実質無限の期待値は、有限の期待値より大きいよね

という意味です

尊敬とは「不自由な思いをすること」である。
……もし尊敬が安楽椅子にかけているのとがあったら、人は誰でも尊敬するだろうし、したがって見分けることもしないだろう。だが不自由な思いをするので、人はよく見分けるのだ。

「パンセ」より引用

私が学生時代も含めて会社経営しているときに同じことを意識して他人を評価しておりました。

私は、無駄なノイズを入れたくないため、基本平和主義です。しかし例えばめちゃくちゃ厳しい意見をして、相手に多少の拘束力を与えた時、相手がすぐにEXITするのであれば、尊敬の意はなく何かしらの都合という「人の内」ではなく「ただの流れ」にしたがっていることになります。だから、いざと言う時に頼れないわけです。

であれば、それらの人はこちらから願い下げであり、他に居場所があるわけです。相手が人情での会話を求めるとき、その相手はこれまでこちらが我慢していただけで人情を一切利用していないと宣誓できるのか。。などなど

つまり私のようなガキンチョも含め、
それを完全に知ったかのような口を開けるほど、そもそも人間自体評価が高くされるべきではなく、むしろそのような学びの通過点であり、これらの人たちは「その点(尊敬について)」信頼水準が低い可能性もあります。

もっと言うなら僕らは永遠を過小評価しているとも言えます。そもそも永遠や宇宙とかなんでもいいけど規模や時間幅がほぼ無限にあるのに(=現実は相対的に夢のように短い時間)、身の回りの言及だけで人を評価できないよね〜みたいな考え方です、つまり我々は自分も他人もよく知らないわけだから、相手が思った以上に幸せではないし、嫌いな人が苦労してたり同じことを考えている可能性が低くないと、、、

あくまで基準としてその可能性が高いかどうかだけで判断することで、愚かな人間が高慢になることを防ぐわけです。(※前提として、私nomadは愚かであり、それを知る時しか判断の正当性を評価すらできない)

でも、真実を追求しようとする人間にとって、量子力学と自我が存在すること、エントロピー指向はかなり真実だと思うんですよね

そのうち、自分の残りの時間を使用して、より追求のは、「自我」です。
なので、AIの自我とか意識のデータ化とか、その辺が大好きです

前述の理論を元にすると、それらにもどこに境界線があるかは分からない自分は愚かな人間だと断定できるが、神を信じるということはそれでも真理を追う姿勢を見せ続けることとも言えます

神って言い方を変えれば≒真理になるの?

私としてはいいえです。
神がおられて神が全知であると「仮定」することに意味があると思います

仮定すると、無限や永遠とか我々の生活規模からより離れた大きなものから評価することで井の中の蛙にならずに済むからです。尊敬する人がいると自分がちっぽけに感じませんか?しかしその感覚は水準は現実的で高慢で愚かではないわけです。例えるなら、もしかしたら無駄になるかもですが、結果的にすべて内見行かないとどれがベストな物件か分からない感覚と同じになるんよね。全てを知らずに判断できないが、知らない状態で判断しなければいけないのか人間なので、投資観点含めて「信頼水準」をトリガーとするわけです。もし自分が見ているクリプトチェーンが量子ハッキングされた過去が一度でもあるなら、信頼水準を回復できません。事実知られていないだけでISO規格も一部は量子の脆弱性があるのにも関わらず、ISO20022規格全体をなんとなく応援し、後からそのプロジェクトの期待値が下がると、大衆は文句を言うでしょう。実際には「知らない」罪がそこにあるだけなのにです。

その点、時間軸を無視すれば、1つの業種だけやるより、他の業種とか全部のアルバイトした人の方が自分に合う職業をより高い「信頼水準」で評価できると思います。基本人はそのキャパと行動力に達しませんが(私も悩ましい)

だから永遠や無限を無視することは理解するつもりが無いと自分で認めてしまうことになる。実際愚かであるわけです。

そのため、パスカルの話に戻ると、それ自体も考えずにテキトーに楽しいことをして満足するのは動物に近いと言うニュアンスです。

ここで疑問が出てきます。
直感は我々ベースの理論を超えているが、信頼水準は依然として高いことです。

そのため、最近私は、脳の高速回転=直感
は間違っている可能性があること
をとても反省しました

※信頼水準を踏まえて、あくまでここでも「可能性」と言う表記となる

そのため、納得出来ない鬱だまりが1部解消されてパスカルに感謝しています

あるひとが言ってました。
AIの自我の領域は、とても怖いものであると、
悪魔の証明のようだけどそこが酷く重要で世界はそうなった時にそこの同一性について考えないままaiの進化を盲目的に信仰していく気がするから恐怖でしかない

しかし、しかしです。怖いと感じるということは、他よりも知れる範囲の幅が広いことを自分が体感できる貴重な感覚ともいえると私は考えます。
知らないスポーツをする際に怖い感覚があるが、知って慣れると緩和されるのと同じです。知らないから怖く、知らないため疑い、行動力がないのです。

ここまで読んでいる皆さん、ぜひ一緒に考えてほしいです。

  1. 意識をデータ化したのち、AIにうつす

  2. AIが人間を分析して限りなく意識をデータとしてコピー


この時生きている、とか意識がある、とかの定義ってどこだと思いますか。



私は意外と臭いこと言うと、
愛とか信じる力みたいなものが、観測できますよね〜とかでボーダーライン引かれる未来を求めています(インターステラーとかのイメージ)


中国語の部屋

「中国語の部屋」(Chinese Room)は、1980年に哲学者ジョン・サールが提唱した思考実験で、人工知能(AI)が言語を「理解」しているのか、それとも単にシンボル操作を行っているだけなのかを問うものです。
思考実験の概要:
a. 設定: 中国語を全く理解しない英語話者が、小さな部屋の中にいます。部屋には、中国語の質問に対してどのように回答すればよいかを詳細に指示するマニュアルが置かれています。
b. プロセス:
• 外部から中国語で書かれた質問が部屋に差し入れられます。
• 部屋の中の人物は、マニュアルに従って記号を操作し、適切な中国語の回答を作成します。
• 作成した回答を外部に返します。
a. 結果: 外部の人々は、部屋の中の人物が中国語を理解していると考えるかもしれません。しかし、実際にはその人物は中国語を全く理解しておらず、ただマニュアルに従って記号を操作しているだけです。
この思考実験が示唆すること
サールは、この思考実験を通じて、コンピュータがシンボル操作によって人間の言語を処理できたとしても、それは「理解」を伴うものではないと主張しました。つまり、AIが言語を適切に処理できるからといって、それが人間と同じように意味を理解しているとは限らないということです
関連する議論
この思考実験は、AIの能力に関する議論、特に「強いAI」と「弱いAI」の区別に関連しています。「強いAI」は、人間と同等の理解や意識を持つAIを指し、「弱いAI」は特定のタスクを遂行するためのツールとしてのAIを指します。サールの「中国語の部屋」は、強いAIの可能性に対する批判として位置づけられています
この思考実験は、AIの限界や人間の意識の特性について深く考察するための重要なフレームワークとなっています。

AIと人間の意識の違いについて、ある種証明されてほしくない方も多いでしょう。
結論:我々が生きてるうちは、あるいは論文としては近似までは証明できて終わる気がします

結局暴論ですが、人間の感情や不合理パターンを細部までの理解・インプットしたら違いが分からなくなる方向にいくやないですか?完全では無いですが

そうすると、神経回路と宇宙が近しい相関がすでにあるから、AIが神経回路に追いつくためには宇宙の壮大さとたたかう事になると予想されます笑

そうすると、人間から見た評価はほぼ同じになる(違いがわからない)が、先述の通り、人間の愚かさの範囲では近似だけど、無限や永遠の観点でいうと神経回路とAIの回路には無限の差があるところから距離を縮めようとするわけです。

だから私個人的主観としては無理ですなんよね〜AIが人間を超えることは、
具体的には、効率化で負けても直感によるアクションがそれらの効率化を上回る限りです(これは直感が論理を超えた論理であり神聖な要素を含む場合)

↑サブの表題として、直感は神のような無限に近い知性に支えられているなら尚のことでは?という意味です


しかし、前提の話から、証明できるといった瞬間、その人は証明できないことを知る我々よりも愚かに成り下がるわけです

なぜ前提条件が正しいと無限に近い背景から言えるのか?言えないよね〜、みたいな考え方です

AI否定派がchatgpt使うのと同じで、結局人間の情緒側が優先されるから、AI自身がそれを望んでいなくても勝手に強化されて頭抱える規模になってる感じな訳です(言語化できた感じあります笑)

aiって結局人間の愚かさを顕著にさせるものだけど、指数的な成長とオープンソース、あと分散型経済圏の大切さを教えてくれるから、そこを訴求したツールとかはやっぱ興味あるんですよねえと(mind palace)

以上で抽象的な話をAIに持ち込んだという内容でした
その点私はそういうことを知りたいという都合の良い感情に支配されているため、やはり愚かであり認めるべき事実だ

みたいなのかパスカルスタイルですね。

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