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清末の不死身 第二章



この1年で清政府とフランスの戦争は全面的に
拡大した。
フランスは海軍の優先を武器に中国の東南沿岸を攻撃し続け、東南沿岸の海防を早急に強化した。
李鴻章の推薦のもと、薛福成は浙江省寧紹台道に任命され、寧波、紹興、台州の3府の海防を担った。
今回は候補ではなく、実務の幹部地位だった。
この1年で、46歳の薛福成はついに正真正銘の役人になったのだ。
 彼は興奮して止まず、まずは北京に恩を感謝し、すぐさま浙江省に赴いた。
 興奮が興奮を呼び、しかし圧力も同様に巨大化した。フランスの海軍力は当時の清政府の海軍を圧倒的に上回っていた。
 1884年8月、中国フランス海軍は福建馬尾港で海戦を勃発した。
 1時間もしない間にフランス海軍が清軍に大きな打撃を与え、"四大水師"のひとつ福建水師の戦闘力をほぼ喪失させ、己れ1艇は沈まなかった。
 すぐにフランス海軍はまた台湾海峡を封鎖し
東南沿岸も攻撃を続け、重要な港口を押さえる準備をし、アヘン戦争のルートに照らして清政府に賠償を迫った。
 薛福成が管轄していた寧波府はまさに東南沿岸の重要な商業港口で、フランス人には最も理想的な攻撃目標だった。
 当時、寧波府最重要海防基地は二箇所あり、
一箇所は舟山群島に位置する定海、もう一箇所は甬江入り江の鎮海。
 アヘン戦争時、イギリス人は先に定海を押さえ、その後定海を基地とし、東南沿海地区の攻撃を続けた。
 その上、鎮海は寧波城からの距離、たったの20数キロ。
 フランス人が堅固に制海権を手に入れようとしていたので、薛福成が先に解決しなければならなかったのが、定海と鎮海の防衛力の分配問題だった。一旦分配を間違えると、定海と鎮海の防衛は海を跨いだ支援が出来なくなってしまう。
 この時、薛福成と李鴻章は10年の経験を生かし、重要な役割をもたらした。彼は李鴻章が編み出した異民族を以って異民族を制す方法を習得したのである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/薛福成


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