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清末の不死身 第三章


その年、アヘン戦争が終結し、イギリスは
定海を返還したものの、依然として清政府に協議の調印を迫った- 清政府は定海を他国に譲り渡すことなど出来なかったが、もし他国が定海を占領するようなことがあれば、イギリスは出兵を伴う干渉を行うと言うものだった。
 これは本来屈辱的な協議だが、薛福成が利用できる道具でもあった。
 薛福成はすぐさま駐寧波イギリス大使を訪ね、イギリスにこの協議の遵守を求めた。
 イギリス国内世論は、フランスが中国東南沿岸を侵略し、イギリスの商業利益に損害を与えており、今、もし再びフランスが定海を占領した場合、大英帝国のメンツはどうなるのか、と言うものだった。
 そこで、イギリス政府はフランスの外交部と交渉し、最終的にフランス人が絶対に定海を
侵攻しないと言う同意を得た。
 この一件で、他力を拝借したとはいえ、
薛福成は結局定海の安全を保証したのである。
 しかし薛福成はまだほかに解決すべき
たくさんの問題を抱えていた。
 例えば、通信問題。
 当時、浙江巡撫①は杭州にあり、寧波からは100キロ以上、通信連絡には1日以上かかって
いた。
 その他、入江の封鎖問題。
 薛福成は甬江の入江に丸太を積み上げ、
鉄のカーテンを敷き、破船を入江に沈め、
水雷を敷き、甬江を鉄桶同様に封鎖した。
 内通者問題。
 二度のアヘン戦争の教訓から、西洋人は真正面から攻撃が難しい場合、重金でベテラン水道員を買収し、彼らに正面防御を避けさせ、横から奇襲するのである。
 薛福成はこの一点を考慮し、現地水路のベテラン水先案内人をすべて統制し、寧波のフランス天主教会の伝道師をすべて杭州に移して管理し、彼らの内通を防いだ。
 最後は統一指揮の問題。
 当時、寧波一帯の清軍は部隊の編成が多く、艦隊司令官の欧陽利見は金鶏山に駐屯し、楊岐珍は招宝山に駐屯した。また、司令官の銭玉興は関門を守り、多くの将軍はフランス軍を待ち伏せた。それぞれは統轄されていなかった。
 薛福成は浙江巡撫の地位を手に入れ、寧紹台道で各地区の人馬を統一指揮し、防衛事務を設置した。
 薛福成と大勢の兵士たちは忙しい数ヶ月を過ごした後、フランス人はついに攻めて来た。

−訳註−
①民政と軍政をつかさどる地方長官
②県と同様の行政区

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