死に至る病

もし誰かが自殺に至った場合、遺族はその”理由”を解明しようとするだろう。例えば「学校でいじめられており、それを苦にして自殺した」とか、「就活に失敗し、以下略…」とか。そういった明確な「ストーリー」があれば、確かに遺族の気持ちも多少は整理が付きやすいのだろうと思う。だからこそメディアもこういったニュースを優先的に報じる。

だからここで、一人の希死念慮を抱き続けている人間の意見として、明確に宣言しておきたい。慢性的な憂鬱傾向によって、そもそも生きることが苦痛である人間もこの世にはいるのだ、ということを。
「生きる意味」というものを自身に問うたことのない人間には決して分かるまい。陳腐な選民思想を掲げるわけではないが、「社会で生きていくための賢さ」と「人間的知性という意味での賢さ」は乖離していると考えている。極めて単純化してしまえば、実学と哲学の区分に似ているのだろうが、ここでは詳細は論じない。

命あっての物種?その命を維持するために、どれだけ苦労しなければならないか分かっているのか。その物種とやらは、今までの苦痛全てを補ってくれるだけの素晴らしいものなのか?きっとそうじゃない、だから今も苦痛で、こんなことを書き綴っているのだ。分の悪いギャンブルに身を投じるくらいなら、確実に全ての苦痛を消し去ってくれる自殺のほうがよっぽど賢明な手段じゃないか。

だから僕は、人間的知性の判断のもと、自身の救済のためにこの身を滅ぼしたい。そうは言いつつ、ことを後ろ倒しにして、今日も無惨に生き長らえてしまっているのだが。命を繋ぐ行動、すべてが敗北感とともにある。


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