創造物と被造物の逆転

社会とは人間が生きるため必然的に生み出したものであったはずだが、いまやそれは一個の巨大な生命体となり、個々の人間はそれを構成する細胞に成り果ててしまった。生物としての座を、大なる社会に売り渡してしまったのだ。
孤独の解体のために社会を作り、恐怖の解体のために科学を作った我々は、今や生活の大半をスマートフォンに捧げている。しかも、人間が抱える孤独は本質的には一切改善されてはいない。この自殺者数を見よ、この争いを見よ、このフィルターバブルを見よ。人間はもとよりバラバラであったのだから、「分断」なんてものは浅はかな見識だと思うが、しかし孤独であるという点には全く同意する。

人間は自分が作り出した存在であるはずの神に祈りを捧げ、果てに自身の生命すらも差し出している。あまつさえ、「人間が神を創造した」という因果すら逆転させようと試みている。インテリジェンス・デザインは或いは責任の転嫁と逃避の表れやも知れないが、とりあえずこの場ではその議論は置いておこう。

して自由、自由とは何かというこの問も、人類を絶えず悩ませ続けてきたが、未だ解決を見ぬ課題であって、自由であることについて考えるほど、そして自由を定義しようとするほど自由本来の意義からは離れていってしまう。そうすると、もはや社会を解体し、分断をより深めて、個々を全く隔絶してしまうことこそが、自由への近道なのかもしれない。もちろん、それが幸福かどうか、そして幸福とは何かというのもまた到底暴ききれない深遠たる謎ではあるのだが。

社会においていわゆる王道的な社会人としての道を歩むなら、きっとこんな考えをすぐに捨て去って諦めてしまうのが一番なのだろう。でもそれができないからこそ、僕は僕であり、等身大に苦しんでいるのだ。


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