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《前編》藤井風「帰ろう」は働くことに悩む人への応援歌~にわかアドレリアンのアドラー心理学的意味解釈①~

最近、藤井風さんの楽曲をよく聴いています。
聴くと肩の力が抜けるような、こころが軽くなるような気がします。

ちなみに、このnoteの「何なん読書記録」は完全に彼の代表作「何なんw」からきています笑。

さて、にわかアドレリアンとしては、今回取り上げる「帰ろう」からはアドラー心理学的雰囲気がプンプンします。

「憎みあいの果てに何が生まれるの」「わたしが先に忘れよう」「全て与えて帰ろう」このあたりの歌詞が特に匂う。

そこで、少々無理がありますが、全文アドラー心理学的に解釈することを試みました(にわかですので、"アドラー心理学風"と思ってもらった方がよろしいかと。)。

この曲は、「働く」ことに悩むすべての人への応援歌になり得る。

最近こちらの本を読んだ影響かと思いますが、そのように思います。

それでは、早速いってみましょう。

「わたし」は自分のことを役立たずで価値のない存在だと思っています。

Q.この歌詞の主人公は、当初どのように自己認識していたのでしょう。

あなたは夕日に溶けて
わたしは夜明に消えて
もう二度と 交わらないのなら
それが運命だね
あなたは灯ともして
わたしは光もとめて
怖くはない 失うものなどない
最初から何も持ってない

○デイタイムに躍動する「あなた」とは違い、
 朝が来る前にひっそり消える、暗闇の中の存在。
 負け組の「わたし」は、一生「あなた」のようにはなれないとしても、
 まあしゃあないよね。運命やわ。
 「あなた」を少し羨む気持ちもあるかもしれない。

○灯をともす「あなた」とは違い、「わたし」は光をもとめるだけの存在。
 「あなた」は灯すことができる(与えることができる)が、
 「わたし」にはそれができないように思える。
 だって、何も持っていないんだもん。能力とか、そういうの。

○自分は、なんにも与えることのできない人間なのではないか。
 自分の存在価値って何?価値がないなら、いなくなっても怖くないよね。

それじゃ それじゃ またね
少年の瞳は汚れ
5時の鐘は鳴り響けど もう聞こえない

○小さい頃は他者との交わりの中で幸せに暮らしていた。

○しかし、大人になって、競争やらなんやらで自尊感情を損なった。
 ライフスタイル(アドラー用語。「性格」に近い。)が歪み、
 対人関係のストレスが絶えない。
 終業のベルは鳴っている(「あなた」を含む周囲の人は、働くことで共同体に貢献している)のだろうけれど、夜明に消える「わたし」には聞こえない(自分の思うように活動できてない。)。

そんな「わたし」は人生まだまだ先があることに気づきます。

それじゃ それじゃ まるで
全部 終わったみたいだね
大間違い 先は長い 忘れないから
ああ 全て忘れて帰ろう
ああ 全て流して帰ろう
あの傷は疼けど この渇き癒えねど
もうどうでもいいの 吹き飛ばそう
さわやかな風と帰ろう

○でも、終わったわけではない。人生まだまだ先は長い。

○競争に巻き込まれ、負った傷が疼いたり、嫉妬やコンプレックスで、満たされない気持ちは癒えなかったりするが、そんなのもうどうでもいい。
 そういう感情はさわやかな風に吹き飛ばすようにして手放そう。そして、自分自身に立ち返ろう(帰ろう。死ぬときはそういう状態で死のう。)。

やさしく降る雨と帰ろう
憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

○共同体に関心を持ち、自分自身が貢献感を持てているかが重要であって、
 競争心から生じる諍いからはなにも生まれない。
 だとすれば、競争で傷つけ合ったけれど、そんなことはもうどうでもいいから、憎まず、「わたし」のほうが先に忘れよう。やさしい雨で洗い流すようにして。
 そして自分自身に立ち返ろう(帰ろう。死ぬときはそういう状態で死のう。)。

新しい生き方には勇気がいります。

あなたは弱音を吐いて
わたしは未練こぼして
最後くらい 神様でいさせて
だって これじゃ人間だ

○社会の中で貢献感を持って躍動する「あなた」でさえも、
 勇気が出なくて弱音を吐くことがあります。

○「わたし」、やっぱり生きるのをやめようかしら。
 でもね、この期に及んで、現世に未練があるんです。
 人間だもの。

わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった

○そもそも、「世の中に貢献せな価値ないよ」っていうのが、勘違いだったのかもしれない。
 現に、「わたし」がいなくたって世の中はまわる。価値は実際の貢献の具合(生産性)とは別のところにある。
 じゃあ価値はどこにあるか。「わたし」がいることそれ自体に価値がある。自分自身が貢献感を持てていれば、そのことを実感できるだろう。貢献感は他者から強制されて感じなければならないものではない。
 働くために生きているのではなく、よく生きるために働く。
 貢献しなければ(生産性が低ければ)価値がないなんて嘘だと思うと、気楽になった。

いよいよ、行動に移そうとします

それじゃ それじゃ またね
国道沿い前で別れ
続く町の喧騒 後目に一人行く
ください ください ばっかで
何も あげられなかったね
生きてきた 意味なんか 分からないまま
ああ 全て与えて帰ろう
ああ 何も持たずに帰ろう

○ガヤガヤと、みんなで寄ってたかって(喧騒)
 「わたし、貢献できてますか?」
 「ちゃんとやれてますか?」
 「イケてますか?」
 と聞きまくり、承認欲求を満たしたいとばかり思っていたけど、
 もう決別する。
 貢献感があれば、自分の価値を感じられる。
 それだけで生きていく意味があるということを分かってなかった。
 周りに承認を求めるのをやめて、自分自身に立ち返ろう(帰ろう。死ぬときはそういう状態で死のう。)。

○共同体への貢献感が得られれば幸せになるのだったら、
 持っているものは出し惜しみせず全部与えよう(普段から与えていこう。そして与え切って死のう。)。

与えられるものこそ 与えられたもの
ありがとう、って胸をはろう
待ってるからさ、もう帰ろう
幸せ絶えぬ場所、帰ろう

○自分が持っているものは誰かに与えられたもの。
 人間は一人では生きていけない。

○互いに「ありがとう」と感謝を伝えあい、勇気づけあおう。
 そうすればお互いに貢献感を感じることができ、自信が生まれるね。

○時々、対人関係に悩むかもしれないけれど、いつでも自分自身に立ち返ればいい。

去り際の時に 何が持っていけるの
一つ一つ 荷物 手放そう

○死ぬときには何も持ってけない。
 だから、後世に何が残せるか、「全体の幸福に貢献すること」を考えよう。自己中心的にならずに、手持ちの物で一つ一つ貢献していきましょうや。

憎み合いの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

○大事なことなのでもう一度。
 共同体に関心を持ち、自分自身が貢献感を持てているかが重要であって、
 競争心から生じる諍いからはなにも生まれない。
 だとすれば、競争で傷つけ合ったけれど、そんなことはもうどうでもいいから、憎まず、「わたし」のほうが先に忘れよう。

さあ、どうやって実践しましょうか……

あぁ今日からどう生きてこう

○ ってなことを「わたし」は考えたわけですが、
 はてさて、今日からこれをどうやって実践していきましょうかね……!

《後編》に続く

いかがでしょうか。
ファンの方はご存知でしょうが、ご本人がこの曲について動画で次のように解説しています。

この曲では自分にこう問いかけています
「幸せに死ぬためにはどう生きたらええの?」
わしはまだもがいてます
だから生きてます
だから、生きることを、もがくことを諦めんで下さい
きっと無事に、幸せに、安らかに帰れるから

生と死がテーマであることは明らかです。
「生きることを諦めんでください」とおっしゃっているように、やはり歌詞中の当初の「わたし」は「生きることすら諦めたくなりながら、もがく人」と解釈できるように思われます。
そして、この曲における死は、「よく生きること」を考えるための仮定(死ぬとしたら、死んだなら、どうであるか)であり、あくまで主眼は「どう生きたらええか」です。

本人の発言のニュアンスからも、「帰ろう」というのは、キリスト教でいうところの帰天、死を意味するのでしょう。でも、「帰る」は死ぬことだけを指しているのでしょうか?
「死ぬときは何も持っていけない」「求めず、与えよう」ということに気づいた状態、すなわち「幸せに死ねる状態」、歌詞の言葉で言えば「幸せ絶えぬ場所」、そういう境地にある自分自身に立ち返ることも含まれると考えることはできないでしょうか。
人生で色々あったときに、そういう自分自身のあり方に、冷静に立ち返るということも含まれるように思います。
それゆえ、自分自身に立ち返るという意味も含めて歌詞を解釈しています。
自分自身に立ち返ることができると、とても安心しますし強いし健康的ですよね。そこが「幸せ絶えぬ場所」ということではないでしょうか。そして、そういう考え方を持って生きていきましょうよ、といっているように思われます。

《後編》で少し補足したいと思います。

楽曲はYoutubeにフルでアップされていますので、ぜひ一度聴いてみてください。

それでは

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