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子どもと、障害

わたしは「先天性緑内障」という病気で、生まれつき右眼がほとんど見えない。高眼圧の影響で右眼の角膜は青く濁っている。


ポポコ(長女)が、すごく言いにくそうに、こんな話をしてきたことがある。
「あのさ、授業参観、ママは来る?・・・あのね、ママの目がみんなと違うから、みんながざわざわコソコソ、陰口をたたくんだよ。それがつらい。」と。

おお、そうか。親に目立つ障害があると子にいろいろ苦労をかけるなあ、と思って、「ポポコがつらい思いをするなら学校へはなるべく行かないようにするよ。でも、影でコソコソ言いたいやつには言わせとけ!ポポコは堂々としていればいいよ!」とわたしは声をかけた。

ポポコとしては、こんなことを母に言うのは心苦しくつらいことのようで、ぎゅうっと抱き締めたらポポコの目に涙が滲んでいた。しんどい思いさせてごめんよ。気にしなくていいんだよ・・・。

担任の先生に事情を話して授業参観は欠席する旨を伝えたら、「クラスで時間をとって、皆に伝えましょうか?」と言ってくれた。でも、障害といってもわたしの場合は軽度のものだし、クラスで話し合いなんかしたら大げさなことになってポポコが余計つらくなりそうで、丁重に断った。のちに先生はポポコを呼び出し、「いいお母さんだな。これは今後ポポコさんが乗り越えていく問題だよ。」と伝えてくれたそうだ。ありがとう先生。そんなふうに娘に声をかけてくれる第三者がいることが、とてもありがたかった。

で、思った。ああ、わたしはこんな小さい、ナイーブな時期からずっと、人と見た目が違う自分を抱えながら、よく元気に生きてきたなあと。偉かったな。すごかったな。

目のことを理由にして、「見た目がこうだからわたしはあそこへは行かない」とか「やってみたいけど諦める」とか、そう考えたことは無かったのだ。目がひとつしかないことによる体への影響が体調不良としてあらわれてきて、大きくなってからいろいろと苦労はしたが、割とあっけらかんと過ごしていた子ども時代であった。目のことでいじめられた記憶もあまりない。じろじろ見られたり、陰口みたいなのはしょっちゅうあったけど。子どもって、些細な違いに本当に敏感だ。

で、両親のことを思った。父も母も、目のことでわたしに絶対に「かわいそうに」と言わなかった。今でも目のことをとても心配するけれど、「かわいそうな子」という扱いは絶対にしなかった。おそらくそのおかげでわたしは自分のことを微塵もかわいそうだと思わなくて済んだのだと思う。

このことに、とてもとても感謝している。父、母、ありがとうね。

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