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ミスはゆるされる!

警備員が追ってきていないと確認する。その瞬間だけ、彼は幸せになれた。至福の気分に包まれた。そのときだけ、残酷な超自我が自分を責めることをやめてくれたからだ。

何のことを言っているのやら、と思う人も多いでしょう。

私たちは生き物です。お腹が減ればそこら辺のモノを食べたくなるし、そこら辺で用を足したくなるし、きれいな人と仲良くなりたくなるし、適当なことを口走りたくなるし、イヤなことがあると攻撃もしたくなります。

今朝、タチの悪い秋の蚊に襲われたとき、蚊がそうするのはまったく当然だと考えました。

なのに私たちときたらおいしそうなパン屋さんの前を空腹で通りがかってもそこを素通りできてしまいます。

フロイトは、言ってみれば「生のままの欲望」が現実で活動しようとしても、それを「私」が抑えにかかるし、そうするように「超自我」という存在が「私」のバックアップをしている、というような「図式」を残しました。

かなりありふれた発想のようでもあります。
意外にこれが奥が深いのです。

たとえばフロイトは「意識」と「無意識」の間に「前意識」という、思い出そうと思えば思い出せる、意識しようと思えば意識できる広大な記憶の領域を仮定しました。

この領域の広大さにはまったく驚かされます。うまく使えればほとんど準備せずとも大勢の人の前で自分なりにいちばん気の利いた話ができるのです。

これは何も特別な人に限りません。ごくふつうの人でも妙に話の面白い人はいます。そうした人はいつも何か気の利いた話をしようと準備して待ち構えているわけではありません。人の顔を見て、いくらか話すうちに、相手がいちばん面白がりそうなことを当意即妙に持ち出してくるのです。

けれどもこの「前意識」がまったく使えないという人もいます。

というのも冒頭の「残酷な超自我」が「私と私の生の欲望」をしっかりと見張っていて、くだらないことを言わせないように、人の信用を失わせる言動を控えるように、目を光らせているからです。

ある種の人の「超自我」は「失」と名のつくものが大嫌いです。もちろん超自我というのは「文化的に好ましい行動ができるように善導」するのが役割です。だから一般的に「失敗」や「失言」や「失笑」を嫌うわけです。

そうでなくても「生の欲望」というのは何をしでかすかわかりません。油断大敵なのです。

大勢の前で話すのに、自我とその欲望に任せておいて、思い出そうと思えば思い出せる「前意識」から話をひねり出すなんて、危なっかしいというわけです。

そこで計画とメモとアジェンダなのです。時間どおりに進行し、スキのない原稿から目を離すことなく、そこにある文字を間違いなく読み上げさえすれば「失態」を犯すような事態は決してあり得ません。

そうでなくてもいまの時代は「失笑」を買うくらいならまだしも「失言」して「炎上」する事態が至る所で散見されます。

ミスは許されません。
といのが超自我の価値観なのです。

けれども話は戻って私たちは「生き物」です。原稿に沿って生きるような生き方ばかりしていては、だんだんと「精気」を欠いて、やがては「正気」を失うようにできています。

万引きをしても「警備員が追ってきていないと確認」できたときだけ「幸せになれる」なんて、とうてい「正気」とは思えません。

どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「生の欲望」を徹底的に封じ込めて、かわりに「原稿を読む生き方」を自分に強いるからです。

こうなると「生きて」いる「生の欲望」は何としてでも表へ出たくなります。超自我の目をかいくぐるような出方を模索するようになります。超自我というモノが「文化的に許容されるやり方」に導く役割であるなら、超自我の目をかいくぐる行動というのは、何であるにしてもあまりまっとうなモノではなくなります。

以上の流れをひっくり返すためにも、自分の超自我に「ミスは許される」という「文化」を日頃からインストールしておく必要を感じるわけです。