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表現と価値


文章、音楽、絵、ダンスetc...

この世には何かを表現するための媒体が
手軽かつ大量にある。


しかしほとんどの人が
「表現された何かにはどのような意味があるのだろうか」
ということばかり気にして、


表現される前の“何か”に
触れたことも、
触れようとしたこともないだろう。

でもきっと、
表現したくなるような
抱えきれないほど重たい“何か”が
その人の心の中でどろどろ流れていたのだろう


私は表現に対して
ある一種の「逃げ」のような、
「はけ口」のような、
「ゴミ捨て場」のようなだるさを感じる

上手く言葉に
纏めることのできない、纏めたくない、
複雑で繊細な渦巻き。

美しいという言葉では片付けたくないような
終わりのない霧の中の煌めき。

その1つ1つを確かめるように食べる。
じっくり時間をかけて
大切そうに口の中に含む。

表現者から受け取るもの1つ1つが
自分から排出しないように守っていたから
ドキドキするのだ


でもそのドキドキが、
表現の価値を下げるように感じる


抱えきれないと判断した、
キャパオーバーしてしまいそうで怖くなった、
だから表現する。

そうして、
ただのゴミ捨て場になってほしくない。


抱えきれない何かを表現することで
共感や意見を得られるかもしれない

でも価値の形は変わる。


さまざまな思いに揺るがされた表現は、
シェフが1mmまで拘った料理に
七味をかけるようなものに近い

七味は味をかえる
風味も匂いも食感もかえる

同じように、
表現の奥にある“何か”からより遠ざかる


表現や創作に思いを落とし込むこと
最大限の表現で色付けること

それが表現者の、
媒体を通して表現したかった“何か”から
1番近い表現者の作り上げる何かなのだ。


ゴミ捨て場にならないような表現は難しい
他者からの評価が一定かつ
その創作に影響がないものなどない

だからこそ
1つ1つの価値が落ちないように、
表現したくなるような“何か”を排出する前に
ゆっくり心の中で溜めてみる


この“何か”は
表現し排出することで完成するのか
自分のなかで完結させた方が良いのか

正解はきっとない。
失敗と後悔の繰り返しだろう


こうして思考と感情の狭間の
表現という行為に、
今日も悩まされ続けるのだ

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