
人として生きる
一般的に人生は1度きりである。
もしかしたら今の意識を抱えたまま、
転生したり来世があったりするかもしれない。
それでも今という瞬間はすぐに終わる。
ただ、この今生きている人生をどう捉えるかは
宗教など人それぞれの価値観によって異なる。
しかしこの体が2度と目を覚まさぬときまで
私は私でしかないと、条件を最悪の場合に備え
私は今を生きている。
だからわざとそうした訳でもないが、
きっと私は理想が高いので
ずっと人生において険しい道を選んできたし
きっとこれからも選び続けるのだと思う。
でもその選択が正解かと問われると
すぐ答えることができないのが現実なのだ。
自分の思いのまま生きているので
それはある意味正解なのかもしれないが
幸せであるとはっきり言い張れる期間は
まだ人生で1度もない。
ここで、私はこの人生を愛したいと考えた。
私は私という人間を特別嫌っていないし
特別愛したい訳ではない。
ただこの生き様だけは私が愛してあげたい。
才能、努力、経験、知識、技術、欲。
人間が生きているうちに何度も向き合うもの。
それらを活用する、
受験、練習、大会、試練などのあらゆる壁。
これらに対して
私はうまく立ち回ることができない。
ずる賢くなれず、真っ向勝負をしてしまう。
安全な方へ楽な方へと向かう度、
どうしようにもなく心が苛まれて
悔しい気持ちだけが渦を巻いて私を見つめる。
「この選択は間違いなかった」と
何度唱えても苦しいまま。
消化しきれない心が段々と抱えきれなくなる。
だからと言って
軽い気持ちで険しい道も選べない。
険しい道を選ぶということは、
それだけ自分に負荷がかかるということだ。
その負荷がキャパオーバーしてしまいそうで
ヒヤヒヤしながら生きるのも苦しい。
ずっとそんなことを考えながら生きてきた。
今日は1月1日。元旦である。
私には年末年始に良くない思い出が多い。
節目だとか、おめでたいだとか、
そんな言葉が飛び交う世間が
毎年毎年、羨ましくて涙が出てしまう。
今年の抱負や叶えたいことを語る人を見て、
こうして改めて自分の人生を振り返ると
思い出すことがまだ苦しかったりして、
このまま何もできずに死を迎えるのかと
果てしなく怖くなってしまったのだ。
でもどれだけ生きて考え続けても
最適解も、正解も、不正解もわからない。
だが、それでいいのだろう。
死ぬまで険しい道を選ぶ私という人生。
自分の意思に従い、
一途に一生懸命に走り続ける人生。
今までと同じように生き続けることこそ、
私の人生や生き様を、
愛するための切符にきっとなると願い、
今日も普段と変わらぬ日常を過ごしていく。