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「100円のモノを売る仕事も、100億円を動かす仕事も、結局は人。」

2015年6月某日。僕は社長宅にいた。

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社長とは、日産辞めた方の社長である。この日は、インドで戦うメンバーの初顔合わせだった。参加者は僕、拓、インドに行く社長(秋元社長)、インドに行かない社長の4名+それぞれのご家族。

顔合わせの内容は、それぞれの意思の確認と、インドで実際に販売するラーメンの試食。拓以外の2人とは、はじめましてだった。インドで名を挙げて有名になるつもり満々だったので、僕は「能條ジョー」と名乗った。

ラーメンの仕込みを進めるインドに行く秋元社長。その間に大きな夢を語るインドに行かない社長。色々な展望を聞かせてくれた。その時は僕もワクワクしていたと思う。ただ心の片隅には「これどこまで現実的なのかな?」と不安な気持ちもあった。あと「この人インド行かないんだよな?」とも思っていた。

実際にラーメンを食べてみるとそれはそれは美味しく、本当に成功すると思った。インドでこの美味さのラーメンが食えるなんて信じられなかった。

バックパッカー時代、バラナシで食べたラーメン(モドキ)は辛ラーメン的な感じだった(事実、今でもエセ日本食料理屋ではラーメンと言って即席麺を出しているが)。それに比べれば雲泥の差である。流行らない訳が無い、とまで思った。

「これはもらった」

そう思っていたかもしれない。

そして諸々話は進み、拓は7月の頭、僕は7月24日に渡印することが決まった。拓から電話がかかってきてから2ヶ月も経たない間の出来事だ。人生とは分からないものだ。

インドに行くと決断しなければ、8月9月10月とそれぞれ一件ずつ僕の大切な友人の結婚式に出席していたはずだったのだがこの有様である。詫びの連絡を入れた。

「ごめん、インドでラーメン屋やることになった」

「あ、そうなんだ。残念だけど、頑張って!」

『ごめん、インドでラーメン屋やることになった」』

『へーそうなんだ!すごいね!』

自分でも拍子抜けするくらい「普通の」返事だった。

教師になろうと大学に入ったのに「教師にはならない!」と言って、3年の終わりにタイとインドへバックパックひとり旅。4年からは、大学に通いながら構成作家の仕事を始めたり、と、僕の友人たちは僕の突飛な行動には慣れていたようだ。


日本を発つまでの1ヶ月間は、送別会の嵐だった。発つ前に会ってくれた人と一人ずつ写真を撮った。120人以上の方々が、僕を送り出すために時間を作ってくれた。

「やべえな。3ヶ月で帰ってくるかもしれないのに、こんなに見送ってもらっちゃったら、そうやすやすとは帰ってこれないな。。」

と、ちょっとプレッシャーに感じながら、皆さんの熱い激励を受け止めた。

と同時に、「失敗しても、俺にはこの人たちがいる。きっとこの人たちが俺の帰る場所になってくれる。」と思った。

帰る場所があるって、めちゃくちゃ心強い。

友達もそうだし、もちろん家族もだ。

今では年に2〜3回一時帰国をするが、毎度実家に泊まる。姉夫婦や妹カップルもみんな時間を作って会いに来てくれる。友人たちも後輩も先輩方も「能條!会おうや!」って言ってくれる。

インドに比べると、日本は生活がしやすい。飯がうまい。落ち着く。トイレが綺麗。日本大好きだ。

でも、「日本が好き」と感じている理由は、そういう物質的なところだけではない。


「人」


これに尽きる。「大切な人がたくさんいる場所」だから日本が好きなんだ。


秋元社長は初めて会った時から「仕事は人」と言っていた。

「100円のものを売る仕事も、100億円を動かす仕事も、結局は人。」


僕も今では仕事を選ぶ時、「どんな内容か」よりも「誰に頼まれたか」にかなりの重点を置いている。

たとえ、好きな人に頼まれた仕事だけをしていて食いっぱぐれたとしても、それでもいい。


多分、食いっぱぐれたらまた「人」が助けてくれる。笑


恩の循環していこーぜ。ってことだ。



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