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貴方も機械に仕事を奪われずに働き続けられる

chatGPTの話題に限らず、AIの進歩は目覚ましく、人の労働にも変化があると言われている。AIは我々の仕事を奪っていくだとか、AIの利用法を覚えなければ次の時代を生き残れないと言い出すコンサルも現れている(なによりこのサイト、noteの代表もAI大好き人間だし、AIとの付き合い方も良く記事にしている)。

だが、何もそんなに構えなくても良い。貴方も機械に仕事を奪われずに働くことが出来る。そんなことは簡単だ。このエントリーを読み終われば誰にでも実践できることが分かる。

そして我々は、楽園が失われていることを知る。

人間としての絶対的な能力

絵を描き、文を書き、音楽を作り、プログラミングを作り、質問に答えられるAIを前に、私たちは何が出来るのか…そういう危機感は多くの人に共有されているだろう。 

複雑な創造行為に限らず、機械導入コストの方が高いはずだった肉体労働や単純(の割にバリエーションの多い)労働も、プログラムやAIの向上によって人間の活躍は奪われつつある。今後はそうしたAIへの指示出しが的確にできること、言わばマネジメント能力が競われる時代が来る…などと言ってAIへの現時点での教育方法(しかしてAIが進化しても通用するあるいは必要となるかは不明瞭な方法)をコンサルタントするプロが現れたり、知的ホワイトカラーが没落する…などと言って既存ビジネスへのカウンターを主張して動画再生数を稼ぐ者が現れたりしている。踊る阿呆に見る阿呆の世界。

しかし、AIや機械を使いこなすとか、AIや機械が奪う仕事から逃げるといった方法は、いずれAIの進化によりさらに複雑高度化するゲームであり、これに賭けるのは分が悪いように思う。また、変化に追い付く(あるいは変化の波に飲まれないよう逃げ続ける)ということを繰り返し続けるには、「個々の人間は老いていく」という条件がシビアすぎる点を忘れてはならない。そんなことより、根本的にAIに出来ないジャンルがあれば、それは人間の強みとして残るというシンプルなポイントをまずは再考すべきだ。原理的に出来ないジャンルがあるなら、そこには分業が成り立ち、我々の立場は残る。

そしてAIに出来ないジャンル、人間にしか出来ないジャンルは確かに存在する。それは消費である

あらゆる創作は受け手を必要とし、あらゆるビジネスは根本的には消費者を必要としている。余暇、暇つぶし、娯楽という意味での「無駄」はあっても、一切の消費をされない創造はない(自分だけが読む同人作品、ですら、自分で消費しているのだ)。他方で、人間が指示しないAIの創作はないし、AIの創作は少なくとも指示した人間に消費されている。だがAIは作品を消費できない。学習と、反応を期待する人間へのアウトプット(「感想を言う」事すら、感想を「求められて」言うのだ)…結局は創造行為あるいはその準備は出来ても、AIは無為に消費をしない。

だが我々は出来る。ボーッと、誰にも感想を言わずに、部屋で飲み物を飲みながら娯楽を享受することが出来る。永遠にAIに負けない能力だ。

消費をすることならAIに負けない。さぁ消費をさせてくれ。

無限の消費、供給の有限

そもそも、機械の夢とは、機械に働かせて人間は好きなことをやるのではなかったか。昭和の時代の少年誌のグラビアを飾っていたような、機械がオートメーションで仕事をこなし、人間は働く時間が減り趣味に時間を割けるようになる…そうした「豊かな未来」がかつては志向されていなかったか。

それが今や、「AIを使いこなせなければビジネスマンとしての未来は無い」と来た。何が変わったのか?あるいは、何が想定と異なったのか?

結論としては、我々の消費は多すぎるのだ。働かない人間がどれだけの消費を行えるか、あなたは意識したことはあるか。感染症で在宅が強制された時、マンションの回線が落ちたという話がある。働く人がその時間家でYoutubeを見るようになった時のトラフィックに耐えられないネット環境。「明日仕事がない」時の飲酒量は、間食の消費量は、仕事をしている日の何倍になる?旅行者はどれだけ増える?生産性を捨て消費に走り出した私たちを支えることは可能なのか?…いや、ハッキリ言ってしまえば、現時点ではまるで不可能だ。コンテンツは今ですら供給が追い付いていない。動画だろうと漫画だろうと音楽だろうと、新作だけではマーケットを押さえる事はおろか供給を賄うことが出来ず、過去作に頼り続けている。それはそうだ。半日家にいればアニメ1クールが見れる。消費は無限に行われる。

機械がいくら生産性を向上させようと、生産性から解き放たれた我々の消費の前には無力である。有限の供給を無限の消費が食い破っていく、まさしく「小人閑居して不善を為す」。ろくでなしでまさしく穀潰しの我々は放蕩で無軌道な消費を為し、世界のバランスを崩壊させるだろう。小人の不善たる放蕩な浪費を抑制しなければならないし、そのためには人間に暇を与えてはいけないのだ。

消費主義という経済

我々は放蕩で無軌道な消費を抑制しなければならないし、消費を抑制するためだけに私たちは生産(を模したもの)に身を投じ忙しくしている必要がある。そのおかしくて馬鹿げた舞台をまともに飾り立てるためにビジネスは存在せざるを得ないし、そうして抑制をすることで残った消費を分配するためのルールとして、富をやり取りするビジネスを続けなければならない。

繰り返すが根本的に消費すべきものが足りないのだ。富を、資本を再配布できたところで、それを消費するためのものが不足し、その渇きを解決できないという病がある。その病のために労働を慰みにしていく。まるで野外作業療法だ。大正時代の精神疾患患者に昼間行動をさせて(畑を耕させたり、土木をやらせたりしていた。有名なのは都立松沢病院か)、以って時間と精神をごまかし、疲れ果て眠らせることと何ら変わらない。夢破れることで眠れる者たち。

逆に言えば、労働や生産性が富を生むことよりも、その富を消費すること、まさしく「パイを奪い合うこと」…もとはと言えばそれこそを人間性と本エントリで定義していたこと…の方が、はるかに重要で、はるかに高度で、はるかに目的とすべき事象である。資本主義や社会主義、ましてや加速主義とも異なる、消費主義として経済を見直すべきだ。

一応断っておくが、こうした主張そのものは、ジョルジュ・バタイユの「全般経済学」と何ら変わる所は無い。「“全般経済学”とは、生産よりも富の“消費”(つまり“蕩尽”)のほうを、重要な対象とする経済学のことである。」

消費主義が全般経済学と違うとすれば、生産よりも消費を重視するだけではなく、生産自体の価値を否定する…あるいは少なくとも肯定しないことにある。生産に人間性は無い…それは機械やAIに限らず当たり前のことだ。日は照り、川は流れ、火は燃え、エネルギーは生まれ、仕事は発生し、動植物は生まれ、大地は形を変える。運動と生産それ自体に人間のみに由来する価値は、人間性は、元来無い。元来全ての人間の活動は(大局的に見れば)太陽のエネルギーの消費に過ぎないとはバタイユも説いているが、バタイユの時代から進み、核と自然エネルギーとコンピュータとインターネットがある現代においても、労働に、仕事に、生産に人間としての価値は無く、むしろ人間の独自性と一時でも感じていた幻は失われた。そうして、今の仕事に人間性を感じられなくなり、無価値であると感じるところから、消費主義は始まっていく。生産性という価値観は、そのうちに加速して、より多くのものをマネジメントするという消費的な仕事を評価していく。だからこそ機械はプレイヤーとしての「生産性」を我々から奪い続けるし、そこにはホワイトカラーもブルーカラーもない。

改めて、バタイユの言葉を引用する。「生産することとは、喪失へと向かうエネルギーの放出を部分的に管理することであり、それ以外ではない。」

貴方も機械に仕事を奪われずに働き続けられる

根本的には我々は消費し続ける事が出来ないから、働いている。「好きなことで、生きていく」とは古臭くなったYoutubeのキャッチコピーだったが、「好きなことをして生きていけないから、働く」という当たり前の構造は昔から変わらないし、その点において機械やAIは未だその生産力の低さのせいで私たちから仕事を奪いきれない。豊かな楽園は失われており、資源は不足している。手入れが不要な無限の果樹園ではない以上、私たちは土を耕さなければならない。願わくは機械が進化をし続け、私たちの消費を賄いきれるまでの生産性に至らんことを…そうして私たちが永遠に消費だけを出来る世界が、楽園が来ることを祈りながら、私たちは自己抑制を通じて働いていくしかないのだ。それはまさしく巡礼であろう。

ちなみに、そういう意味において…つまり、よく言われる「機械導入よりも人間の方が安くしかも小回りが利く」という負の意味においてではなく…ギグ・エコノミーが広がっていくのは、消費主義の正の拡大と捉えることもできよう。つまりは、その教えが広がり、祈りが礼拝堂から生活に、オフィスから街や家にシフトしている結果が、私たちを生産性の低い労働としてのギグ・エコノミーにいざなっているのだ。ただ、消費をコントロールする…暇な時間を浪費する…ための労働。

だから、何もそんなに構えなくても良い。貴方も機械に仕事を奪われずに働くことが出来る。そんなことは簡単だ。その祈りだけが、貴方を人間へと導く唯一の約束だからだ。無軌道ではない欲望を、抑制された消費を、時に発露するためだけのルールとして、貴方には仕事が与えられる。

補足

ところでこの話は、つまり、仕事には創造性が無くなり、我々の大半が「消費をする」ということだけで世界に貢献する…逆に言えば「無価値」になる…という未来が来ることは、AIの話に関係なく、人間だけの議論でも書いたことがある。

上記のエントリは、いつか本エントリで言う「楽園」がくる…というより、来ないともっと質の悪いディストピアが来るのでこうならざるを得ない…と予言したうえで、しかし今は目の前の仕事に邁進しなければならないと説く、宗教家の説法じみた話だが、その教えは根底で通じている。生産性を否定され、消費を抑制するためだけの仕事を行うという地獄の果てに、楽園は来る。「思ってたのと違う」現在から、「思ってたのと違う」未来へ。

こういうことばかり書いています。発想を変えて今を生きるために。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。