「目的は何だったのか」をつねに意識する

いろいろと批判を受けることの多い青年期のスポーツ活動、いわゆる部活ですが、合理性を養うにはとても実践的で効果的だとは思うのです。
為末大さんの発信を見ていると、そうした高度な合理性・知性に感銘を受けることがしばしばあります。

上記の一連のスレッドは永久保存したい笑。
一部為末さんの記述を引用します(カッコ内)

「とにかく続いてるのだから、始まったのだからなんとしてでも続けようとなりがちです。しかし、続けることが必ずしも正しいとは限りません。」
「理由は三つあります。まず全ては変わり続けていること。全ては変わるのだからやることも変える必要があります。次にリソースは常に足りないこと。だから大事なことに絞り続ける必要があります。最後に何かをやることは常にそれが気になり続けるということ。やめることで注意も解放されます。」

上記為末大 @daijapan 氏のtweetより

観察していると、仕事ではとかく直面している課題にだけ注目し近視眼的にその課題の解決のみを図り、同様の末端の個別具体の解決策が集合体としては矛盾してしまう、あるいは最初から矛盾するとわかっていてとにかく眼前の課題の解決以外は棚上げしてしまう、ということが多いようです。
たしかに、いちいちの仕事にまで「この仕事の目的は一体何だったっけ?」と考えるのは手間ですし労力が要ります。
ですがそれは習慣ですから、繰り返して身につけてしまえば良いことです。
(逆に言うと、先行き矛盾するかどうかを考えずに場当たり的な対応を選択する、ということが習慣化してしまっている、とも言えますね)

忙しいととにかく眼前のことをルーティンでかたずけて…となりがちなのは理解できます。そもそも論として忙しくするヤツが悪い。構造的に負荷を下げるよう努力すべきものが努力しなければならない、それは重々承知しています。
それを踏まえたうえで、申し上げたい。
「目的」に沿わない執行は功罪相半ばする、罪が上回ってしまう場合もある、目的をつねに掴んでいたいものですね。

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