地域のコミュニティの、同床異夢

今日は、ごく短くなるかと思います。書くことになかなかの躊躇を感じるテーマなのですがこのタイミングで記しておくことには意味があると考えています。

ある団体(コミュニティ)が設立されるとき、その団体の参加が任意で参加資格に制約がなくとくに定められた意志決定機関・手順を持たないとしたら、その団体に参加する人はその団体に民主的な意思決定を想像して期待するかもしれません。実際のところ、人の世ですからファウンダーの意思というのは尊重され、コミュニティの設立に際して明文化されなかったもの”こそ”がそれを共有するグループの特権として機能する面があるのもよくあることでしょう。
地域にNOGがあるということを率直に良いことだと思っています。
任意参加、参加資格制限のないNOGというコミュニティの性格上、どういう意図、動機で成立したものであれ参加者が参加者の民主的な意思でそのコミュニティのありようを変化させていける、少なくとも原則論としてはそう信じているものです。
一方で前述の通り「設立の経緯・動機」というものはけっこう強力に団体の性格を方向付けます。

「地域IX」の何度目か(3度目?)の”ブーム”があってそれが「官製」の色合いが濃いという話は何度か触れています。

この政策が起点で、波及したものとして生じたNOGがあった、という視点をはずかしながら見落としてました。
そのようなNOGは、まずはその「目的」を達するために資源が割かれることになるでしょう。NOGが「BoF的なもの」という期待に基づいて集うひとからすると少々驚くかもしれません。とくに”本部組織”的な意味でJANOGを見ているひとにはそのギャップに少なからず困惑することもあるかと想像します。
同じ”NOG”という言葉を共有していても、そのコミュニティでしたいこととできることには隔たりがある、大人の事情があるのでしょう。
多くの方の意思や情熱が向けられたことなので、より良い方向へ向かうと良いなと思います。

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