「できない」

いま私個人や当社がこの姿であるということにたいへん大きな恩恵のあった方がキャリアの区切りを迎えられたということであらためてお話をお聞きしにあがりました。
ぶれない姿勢に触れて、自分の未熟を痛感しました。まだまだ基本的なところでやらねばならないことはあるなと。
それにしても…14年ぶり、だったとは。そんなにごぶさたしてしまっていましたか。なんと不義理なことか。猛省します。

基本的なこと、執行監督の権限と責任について。
これもまた日記として記さねばならない発端があって記すのですが、やはり折に触れて話をしてチームの理解や意識の維持に丁寧に手間をかけなければいけないですね。

チーム(組織)には執行の監督権限が階層的に設定されています。責任も権限に応じて階層的に設定されていると理解して良いですし、対外的には「最高執行責任者」を介して原則的に「最高経営責任者」のみが成果・実績に対して責任を負う、という構造でしょう。権限は移譲されているケースもあるので移譲元を責任者としたうえで執行の判断や選択は一任され移譲元に権限がないケースもあり得るでしょう。
まずこの原則的な構造の理解と実践の徹底を図らなければなりません。
この監理の階層構造で日々実践(執行)を行う中では「挑戦的」なこと「不確実さ」を含むことも取り扱います。先日この日記でも記した、「事業とは(新たな)付加価値を常に積み増していくこと」という理解に基づくなら、むしろそうした不確実さを伴う行動こそが常態だとも言えます。そこで組織の意識をまとめ維持する上でとくに丁寧さが求められるのは「できる」ということの扱い、かもしれません。
多くの場合、監理権限を持つ職位のひとと実際に執行・実践をする担当者は異なるでしょう。挑戦的なこと、言い換えると分不相応とも思われる背伸びするような行い、は当然不確実さを伴いますし、たいていの場合執行・実践の担当者は「できない」と言うでしょう。執行・実践の担当者が「できない」と言った場合に「するかしないか」の判断とその結果に対する責任は監理者にあるということは忘れてはいけません。

とくに「しない」判断には、しないことで逸失したモノやコト、とくに「挑戦して失敗した場合」に比してどうであったかということに対する責任・評価が伴うことを管理職を含む執行組織全体に周知し、つねにより良い判断のできる組織文化を醸成・維持しなければなりません。執行者が「できない」と言う理由・背景としっかりと向き合います。「できない」という判断、そして報告・主張の方法・内容は適切でしたか。
執行者も「できない」と言う「適切な理由」を習得し、より良い組織文化の形成に協力しましょう。対象となっている「コト」をより良い結果に導くことと、管理者と執行担当者の関係ひいては執行組織全体を健全に保つために欠かせません。前者はコトに個別の一過性・一時的なことですが後者は組織のありように影響を与え持続的な状態変化を伴うことなのでより重要なことです。意外と軽視されていませんか。

このように言葉にしてみれば、より挑戦に耐えるチームが強力なチームであることは明白です。一方。挑戦を伴う行動はひとりひとりからすると負荷(ストレス)の高いものでしょう。ですから、不確実さを伴う行動・挑戦、がチームにどの程度受け入れられるのか、というのは日々のチーム(組織)の「メンテナンス=マネジメント」にかかっているでしょう。
権限と責任の再帰的階層構造の中で、ヒトやコト(業務・案件)の管理をする職位にあるひとは、この「メンテナンス=マネジメント」を忘れてはなりません。
「一見できなさそうなことを扱うこと」、まさにそこに組織のありよう、マネジメントのありようがはっきりと映し出されるものです。

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