パラからDandI(多様性と包摂)について考えてみる

もう一度DandI(多様性と包摂)を題材に書きたいと思います。
オリンピックでは「差別を克服する」「社会の持続性」をテーマにDandIを取り上げていたようですが、パラリンピックだと「多様性との向き合い方」なんだと感じています。

今日は論点の提起が主題なので短めに。
多様性との向き合い方には三つの形があるのかなと思っています。
ひとつは「無視」、ひとつは「違いへの関心」、ひとつは「解消」。
無視、というのは違いによる問題が存在しているけれど論(あげつら)わない状態です。これはマイノリティにとってはいつも不自由さと向き合う状態ですが好奇心にさらされるようなわずらわしさはないのかもしれません。
違いへの関心、はマイノリティにとっては問題解決のための第一歩ですが四六時中関心にさらされることは大変だろうと思います。それに耐えられるひとはそう多くないかもしれません。あるパラアスリート(陸上の金メダリスト)が言っていたことなのですが「ネガティブでいることは簡単だ。周囲のひとは私を気遣ってくれるだろう。ポジティブでいることはとてもたいへんだ。なぜなら常に(どうしてポジティブでいられるのかを)説明しなければならないから」。これは、違う属性のひとのもつべき態度を強く示唆している気がします。関心を持ち課題を解決していこうとすることは大事ですがそこに「ネガティブなんだろう」という予断や感情はむしろ課題解決の障害になる。こうした予断は「包摂」とは反対のベクトルを持っているんだなと思います。
真の包摂にむけては、解消する、ということが大事なんだろうと思います。
解消ってなんでしょう。例外、なのかもしれませんが、とてもうまくいっている例は「眼鏡」だろうと思います。私自身強度の近視で眼鏡がなければ知らない土地にいくことすら難しいのではないかと思うのですが、その矯正器具として眼鏡を使っていることに「眼鏡ってたいへんだねぇ」などと言われることはありませんし「近視だけど、ぜんぜんネガティブじゃないよ。ふつうに暮らせてるし、なんならあなたよりすごいことできるかもしれないよ」などといちいち説明する必要もありません。これが社会が多様性を受け入れた(包摂した)典型的な姿だと思います。

そのように課題がなくなって意識されなくなる、というのが包摂されるということなんだろうと。そしていかなる「違い(多様性)」もそのように包摂されることを目指す、というのが「DandI」ということなんだろうと、いま私の理解はそんな感じです。

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