のびのびと。ありようを認め合う

たまに記しておかないと忘れられてしまうので今日は書いておきます(笑)。
日頃、理屈っぽく「合理性」や「筋論」とか「言語化」といったことを言ったり書き連ねたりしているわけですが、本来の私は「直感的」で「直情的」な性格です。
行動の原動力、動機の大きな要素は「ムッとしたから」な場合が多い、そんな出来の悪いジンブツです(笑)。
私なりの持論、もあってそれは決して「完全に正しい」ということはなくて、誰かにとって好ましければ誰かにとっては好ましくない、そうしたものです。
ただひとつ言えることは、そうした動機での拙速な行動であったとしてもその結果の責任や非難を引き受ける覚悟は小さいころからあった、という点がひとと異なっていたかもしれません。たとえその覚悟というのが、それが基づくべき結果と影響を隅々まで見通す力で言えば未熟だったとしても、です。そういったところは、多くの「オトナの方々」に尻拭いをしてもらってきた、振り返るとそういうことだったと思います。
「持論」などというものは言って良い相手とそうでない相手があるものでしょう。
そこそこに生きてきて、持論などというものは言って得をすることなどほとんどないとわかったのでそのような話をすることはほとんどなくなりましたが、経営者にとっては役員会や執行組織は「言わねばならない」方々だと覚悟しなければなりません。
自分の持つ思想や哲学、行動様式を示して、共感を得るよう努め、それに従って行動してもらうよう監理し、その生じる結果のすべてに責任を負う、ということです。
んー、その積み重ねとして「直感的で直情的」、もう少しエモーショナルなパーソナリティだったはずの自分を抑制しているのは、ある種逃げなのかもしれないと思ったりもします。逃げ、の要因のひとつは「ポリティカルコレクトネス(ポリコレ)」かもしれませんね。

少々気持ちのふさいでしまう論説を読んでしまいました。そんな記事なので引用・URL参照は避けますけれど、ポリコレを拡大解釈しすぎて暮らしにくい窮屈な世相をつくり出している原因のように思える内容の論説でした。
いえ、この論説そのものは「拡大解釈」ではないのですが、この論説の表層だけを受け止めるとそうなってしまう、という、まぁある意味よくできた誘導記事なので、狡猾ではあるのですけれども。
ともかく。ポリコレとか多様性とかは、一方で包摂(インクルージョン)と言いながら「ポリコレ的でないものを排斥する」という点で実は包摂的ではないし、窮屈さを生み出している、ということに、少なくとも私の身の周りのひとたちは気づいていますしそう感じているようです。ポリコレ、は相応の役割のヒト、立場のヒトらで十分。
市井の一般のひとまでそうしたことに縛られる必要はないのだろうと思います。
まぁ、ではこのSNSの世の中で一体だれが「市井の名もなき一般人」なのか、というところは難しい。散々言い散らかしておいて都合よく「名もなき一般人」といって非難を免れるか、そうはいかないでしょう。ですが公衆の面前で話をするなら相応の責任を伴うことくらいはわきまえがあって当然です。その程度のことです。

ひとりひとりには個性があります。ポリコレはのびのびと個性を発揮することに寄与するでしょうか。

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