1. #夜、人間、魔女。
時刻は3時をまわったころで、人の気配も感じない。眠れない夜は眠ろうとしても仕方がないと諦めて、散歩するのが癖になっていた。夜遊びの時間は終わっていて、朝帰りには早いような中間の時間に自分だけがいる、そんな空間が春川(はるかわ)は結構好きだった。ポケットに手を突っ込みながら、冷たい空気に驚くように鼻の奥がつーんと疼いてシャツ一枚で出てきてしまったことに気づく。春は近いはずなのに、朝晩はまだ冷え込んでいるから本当に春はくるのか疑ってしまいそうになる。
歩きながら見え上げた空は、濁った白い雲が光を覆い隠していた。春川の吐いた息がゆるゆるとそれと同化していくようだった。
家の近くを宛もなく適当に何も考えずに歩いて、あぁ、今なら眠れる気がすると思う瞬間がある。意識の破片が少しずつ剥がれていき、あとひとかけら、手放せば、眠れるのに。
気休め程度に置いてある街灯の灯りの向こうに見えた眠らない店、コンビニ。俺みたいじゃん、と春川はいつも思う。
不思議なことで、家からここまで自分以外誰もいなかったのに、コンビニには誰かしら必ず人がいる。たとえこんな時間でも。
店内に足を踏み入れ、覇気のない「いらっしゃいませー」の言葉を投げられる。店員は一人。大学生くらいの若い青年のようで、金髪とピアスが無駄に明るい蛍光灯に照らされてやけに眩しい。春川は店内を見ることなくレジに向かうと、
「あ、これっすよね」
店員が後ろの棚の煙草を取り出して渡してきた。
「あー、うん。そうこれ」
数回きただけで、覚えられているのはたぶん深夜だから。春川は510円ぴったりを置く。「ありがとうございましたー」と覇気のない声に見送られながら店を出るとき、真っ黒いパーカーを着た女とすれ違った。ふんわりと香ったココナッツの匂いに、つい、振り返ってしまった。
店の外にある灰皿の前で今買ってきた煙草をさっそく吸い始める。ぼんやりと店内に目をやると、黒パーカーの彼女はレジ横のショーケースを真剣に眺めて、しばらく悩んだ末、唐揚げにしたようだ。袋をもらわず、唐揚げを抱え店から出て、灰皿を挟んで少し距離をおいたところで唐揚げを食べ始める彼女。煙草を持つ手を気持ち彼女から遠ざける。
重たい煙が肺を満たして汚染していく感覚に集中して呼吸をすると頭の中がすっきりしていく気がして、眠れない夜はやめられない。一本をじっくり味わって帰るのがいつものパターン。灰皿に煙草を落として帰ろうとして、ふいに横から腕が伸びてきた。目の前に唐揚げが一個、爪楊枝に刺さっている。
「たべる?」
思ったよりもハスキーな声が響いた。黒パーカーにショートボブの黒髪がふんわりとした印象を持たせつつも、つんとした感じもあって、どこか人間味のない雰囲気を纏っている。首を傾げながら、ぐいとさらに唐揚げを近づけてきた。
「最後の一個、食べきれないの」
軽く眉間にしわを寄せて、むっとしたような口調に「あー……」と悩みつつ、睨まれているのに耐えきれず唐揚げをいただく。ほんのりレモンの香りが口の中を爽やかにしてくれた。
彼女は満足げに唐揚げの入れ物と爪楊枝をゴミ箱に捨てた。そんな彼女に春川は何も考えず手にしていた煙草の箱を差し出した。数秒置いて「あー、吸わねぇよな」と戻そうとして、彼女は煙草の箱を受け取り、一本出して、口にくわえる。春川が火をつけてやると、ゆっくりと静かに吸った息をそっと吐きだす。ほのかにココナッツの甘い香りも混じり、誘われて、春川も火をつける。
無言で過ぎる時間。時折、空を眺める彼女の横顔が切なそうに見えた。
春川は二本目を灰皿に落とし、今度こそ、帰ろうと歩きだし、そして足を止めてどうでもいいけど気になることを訪ねようと振り返ると、まっすぐこちらを見つめる彼女と目が合った。
「黒、好きなの?」
黒パーカーに黒髪に黒いスニーカーでと全身黒で統一している彼女はそのまま闇に溶けていきそうな気がする。
それから彼女は急に子どもっぽく笑って言った。
「だってなんか魔女っぽくない?」
心の瞬間の共鳴にぼくは文字をそっと添える。無力な言葉に抗って、きみと、ぼくと、せかい。応援してくれる方、サポートしてくれたら嬉しいです……お願いします