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愛のかたち

「君って俗っぽくないところが良いね」
 いつか言われたこの言葉を超える嬉しいセリフはいまだに見つからない。
 かわいいね、好きだよって言われるたびに、冷めていく感情。はらはらと心の破片が落ちていった。好きだよって言われるたびに彼に言われたその言葉を思い出した。いつだって私は過去に囚われている。
 夢のなかも現実も大した差はないって気づいてから、すべてに現実味を感じなくなって、だから孤独って生まれるのかもしれない。
「こんなに好きで、愛してあげられるのに、どうして付き合ってくれないんだよ」
 一年ぶりに会った彼は駄々をこねる子供のように同じ言葉を繰りかえす。もちろん「君って俗っぽくないところが良いね」と言った彼とは別の男だ。彼はこんな俗っぽいことは言わない。
「うーん、付き合う必要性を感じないんだよね」
「なんで」
「え、逆になんで付き合うの?」
「好きだから」
「だから?」
「だから付き合おうよ」
 私は口を閉ざした。沈黙がホットコーヒーをぬるくさせる。幸い、カフェ特有の騒がしさが沈黙の気まずさを打ち消していた。
 あのさ、と彼は沈黙を破った。
「俺のこと好きじゃないの?」
「好きだよ」
 即答するとなぜか困ったような顔をしてアイスコーヒーを啜りはじめた。
 一年ぶりに会えば早速こういう話になるなんて、正直会わなければよかったと後悔している。最後に会った日もたしかこんな話をして、嫌気が差して連絡を返さなくなったのだ。ふらふら行く宛もなく、ふと独りになってしまったとき、うっかり手が滑って「会いたい」と送ると秒で飛んできてくれる人で、たとえずっと連絡を無視していても、彼は私を無視しない人だった。
「前にも言ったけどさ、好きなら付き合ってくれてもいいんじゃない?」
「付き合っても何も変わらないのに、付き合う必要なくない?」
「縛られたくないってことは知ってるし、そういう意味では気を付けるよ」
 ホットコーヒーはどんどん冷めていく。
「好きだから付き合うって感覚が私にはないわけだけど、好きだから付き合うって理論を押すなら、私、好きな人たちみんなと付き合わなくちゃいけないことになるんだよね。何度も言うけど、私と付き合っても関係性は今と変わらないよ。だから付き合う意味はない」
 一気に畳みかけて、コーヒーを一口。温かさの面影のない味が、私の心と同化していきながら、 君って俗っぽくないところが良いねと言った彼との会話を思い出していた
*     * *
 
「なんか今ふいにすごい頭を撫でたい衝動に駆られた」
 彼が子どもみたく笑った表情を見たとき、私は考える間もなくそんなことを口にした。
「あ、それ、年上の女性によく言われるよ」
「なんていうか……かわいがり精神?みたいな感じが生まれる、気がする」
 濡れた頭をタオルで拭きながら彼はベッドに腰掛けた。背骨が見える。髪から落ちた雫が背骨を伝っていくのを私はぼんやり見つめていた。
「かわいがり精神、ね。僕は女性に甘えたいタイプだから、ちょうどいいな」
 振り向いた彼が顔を近づけてそっと口づけて、いたずらっ子みたく笑う。
「この言葉好きじゃないけど、一般的には言えば母性本能……をくすぐられるって言うのかもしれない」
「うん。君がかわいがり精神って言ったとき、母性本能って単語を避けたんだろうなって思ったよ。だからスルーしたのだけれど」
 あぁ、わざわざこんなことを言わなくてもいいんだったと気づいた瞬間、酸素が私の体を駆け巡った。無意識に呼吸をすることがこんな楽だなんて、知らなかった。
 君はさ、と言いながら彼が私を抱き寄せる。
「僕を好きに、恋愛的に僕を好きになることはないだろうけどさ、もしそうなったら言ってね。もし君に恋人ができたときも教えて」
 耳元で囁くような声で彼は言った。濡れた前髪から垂れた雫が私の肩に落ちて、震える。
冷え切った心を感じながら、たとえ理解し合えていても最終的に言葉って邪魔なんだよねと。同じ意味を持つ言葉で共感しても、心に空いた穴は言語では埋まらないとわかっていても私たち、言葉を手放せないでいる。
「逆に聞くけどさ。そんなこと、あると思う?」
 私の問いかけで気づいたらしい彼は堪えきれないように笑いだす。
「君のそういうところに僕は惹かれたんだった」
 子どもっぽく笑いながらも寂しさ滲ませる、そんな風にさせる彼の中の感性が私は好きだった。誰にも伝わらない感情を持ち寄って溶かせる感情を持つ彼が好きだった。
 
*     * *
 
 ずずず、という音で現実に引き戻された。どうやらアイスコーヒーを飲み切った音らしかった。悩んでいるようだが、どうせ大したことは考えていない、と私は勝手に決めつけている。
「よし、わかった」と彼は顔を上げ、
「もっと好きになってもらえるように俺もっとがんばるわ」
 どこかすっきりしたような表情で笑った。
 冷え切ったコーヒーに映る風景を眺めて、ふぅーと息を吐くと耳鳴りがした。彼の言葉が私の脳内でひらがなに変換されて流れていく。文字の羅列に襲われる感覚が気持ち悪かった。
「なにをがんばるの?がんばったからって今の好きが肥大化して付き合ってもいいよってなるわけじゃないのに」
「俺はどんな君も受け入れるよ。嫌いにならないし、いつだって愛を与えるよ。俺の愛を知っていけば君も変わっていくんじゃないかなって」
 耳鳴りがする。受け入れるといいながら、受け入れる気なんてさらさらなくて、自分好みに変えようとしていることに気づいていないところが、嫌い。愛を知ってるとか知らないとかよく言うけど、本当に愛を知っている人なんているのだろうか。彼は彼の信じる愛だけを正解だと思っているくらいには世界が狭いんだと。
 電車の先頭車両に乗って線路の上を滑る風景を眺めてもなにも思わないような、コーヒーはブラックしか許さないような感性が、私の感性と分離する。永遠に混ざらないことに私だけが気づいているのが無性に腹立たしかった。
 でも、と彼は人差し指を立てた。
「煙草と自傷と異性と寝るのは禁止ね。それさえしなければ自由にしていい」
「なにそれおもしろいね」
 おもしろすぎて笑ってしまった。なんとなく笑いが止まらないままホットコーヒーを追加注文する。
 熱々のマグカップから立つ湯気の形が美しいと思った。
「私はもうすでに君のことは好きなわけで、だからもうこの先あるのは嫌いになるだけなわけだけど」
「え、嫌われんの?俺」
「いや、好きから変わるとしたら嫌いしかないなっていうだけ」
「好きから愛に変わるかもしんないだろ」
 湯気が舞って、霧散する。心なしか舌の上に雑味が広がっていく気がした。
「好きも愛も同じだよ。そもそも好きが積もって溜まって愛に格上げされるわけじゃないしね」
「え、そうなの?」
 彼のことが好きという感情に嘘はない、確かにそこに嘘はないが、人として好きと思っていないのも事実。
 たとえば、いつ連絡しても応えてくれるところとか、求めたことをしてくれるところとか、求めた以上のことはしないところとかは好きだ。でもそれだけ。彼が私にできることは、物理的に寄り添うことだけ。会話も、心の寄り添いもできないってことに本人は気づいていない。
 好きっていうのは一つの感情でしかない。抱きしめたいっていうのも感情の一つ。悲しい、嬉しいと感じるのと同じなのに。私にとってはそうで、他の人にとっては違う。ただそれだけのことなのに「愛を知れば変わっていくんじゃないか」なんて言われてしまう。私には変わる必要があって、俺にはない。そう当然のように言い放つ人が、正しさだと信じているそれを押しつけている。
「私は何も約束できないよ。そんな人間じゃないんだよね。私の行動がきっと君を傷つける。そんな未来しか見えない。こうして自分の都合で会っていることすら私には自己嫌悪の対象で、君と別れて家に帰って独りになったら憂鬱になるんだよ」
「いやそれは、俺は会いたいから会ってるだけだし、好きな人に呼ばれたら嬉しいしさ。気にしなくていいんだけど」
 いつだって優しさに切りつけられている。愛されたいと願っているのに、本音は、愛がしんどい。自分のどうしようもなさが浮き彫りになっていく。誠実の殻を被った誠実な人が、愛を振りかざしている。愛が、お前らの愛が、まるで美しいものかのように語られて、私は思う、あぁ俗っぽいなと。
 
 
*     * *
 
 結局のところ自分がどうしようもない人間だということ。人と関われば関わるほどに痛感する。お前らが、といくら言ったところで大勢の感覚からズレている事実は少しも変わらない。誰も理解できない、理解してくれない。
「どうして好きってなると付き合うってなるんだろうね。私にはよくわからないなぁ」
「好きの幅が違うんだよ。でもきっとみんなからすれば僕らは愛のない人間ってことになるのかもしれない」
 暗闇の中、部屋のテレビが明るく光り、夕方のニュースを伝えている。ブルーライトに照らされた横顔をのぞく。いくつもの言葉を浮かべながら慎重に言葉を選び取るように彼は口を閉じた。
「私たちって、周りから見たらどう映るんだろう」
「恋人だと思う人もセフレだと思う人も、見ている景色は同じということだけが事実だよ」
 事実と真実は違うのに狭い幅で括られて嫌んなるよ、と独り言のように小さな声で呟いて、私を抱き寄せる。温もりが、心地いいという事実が存在していた。それだけでよかった。私たちの間には事実だけがあって、その事実を共有できるくらいには似ていたのかもしれない。
「僕は、君の俗っぽくないところが好きだよ。おやすみ」
 しばらくして彼はテレビを消し、静寂と暗闇が落ちた部屋でぽつりと囁いた日のことを私はたぶん一生忘れない。

心の瞬間の共鳴にぼくは文字をそっと添える。無力な言葉に抗って、きみと、ぼくと、せかい。応援してくれる方、サポートしてくれたら嬉しいです……お願いします