これがわたしの領解文??工楽ノ佑

私についてふと気が付いた事がある。この所、四六時中お念仏申しているのである。よく覚えていないものの、まず夢の中で南無阿弥陀仏。朝起きて最初に浮かんだのも南無阿弥陀仏。スプラトゥーン3で遊んでいる時も南無阿弥陀仏。任意団体の会議中も南無阿弥陀仏。用事があってちょっと駅前まで向かっている時も南無阿弥陀仏。その用事である口座振り込みをやっている途中も南無阿弥陀仏(因みにこの口座振り込みも通販でしか買えないちょっとお高い仏教書を買う為口座振り込みである)。帰ってきてシャワーを浴びている時も南無阿弥陀仏。そうしてちょっと疲れたので昼寝をしたが、その時もまた夢の中で南無阿弥陀仏。最早お念仏申していない時間の方が稀である。

「草の庵に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏(良寛)」という歌がある。これに非常に頷きたくなるのである。寝ても覚めてもという表現が比喩ではないのが驚きである。細かい事は全くわかっていないし、これからもわからない事だらけだとは思うが、兎も角、己の計らいが何れも無効であるこの世にてこうも四六時中お念仏を頂いている事については、どう解釈すればよいのだろうか。そうやってまたわからなくなる。しかし今このわからなくなっている時も、南無阿弥陀仏である。やはり南無阿弥陀仏がどこかへ行く事は無い。そう振り返って、また南無阿弥陀仏となる。ただひたすらにお念仏である。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

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