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八方美人はやめないけれど

20、30、40の10歳違いの男女3人が集まる会がある。真ん中の30が、20の私に社会人トークを聞かせたいと言って開催してくれたのがキッカケだ。半年前に始まったこの会は、今のところ数ヶ月に一度の頻度で定期的に行っている。

今後も私が就職で遠くに行くまでは続くのだろう。というよりも、続いて欲しいと願っているという方が正しいような気もする。

定期的に集まるこの会を私は『八方美人の会』と勝手に称している。というのも、第一回で誰かが「八方美人って昔言われたことない?」と聞いたときに、全員が「ある」と答えたからである。

八方美人と言われた経験があるというのも含め、1番年下の私がいうのもなんなのだが、私たち3人はよく似ていると思う。もちろん年齢にかなり差があるので、全く同じということはない。

それでも、なんというか性質やフィーリングのような性格を形成する根っこの部分が非常に似ている気がするのだ。

たしかに10歳以上も歳が離れていると、当然趣味や知識量に差が出てき、そのような部分に配慮して多少なりとも気を遣うことはある。それでも、それが負担になることは少なく、自分にとってこの会は大変いこごちのいいものだった。

なによりもこの会の2人と話をすることは、あるかもしれない未来の自分と話をしているようでとても楽しい。

いつからか八方美人と言われなくなったように思う。それは私が八方美人じゃなくなったからなのか、八方美人を隠すのが上手くなったのか、そもそも八方美人だと思われていたのは勘違いだったのかはわからない。

個人的には八方美人を上手く扱えるようになったからではと考えている。

本当は自分のことを八方美人だと確信したことはない。嫌われるのが怖いから全員にやさしくしていたわけではなかったからだ。私は別に苦手な人もいないし、わざわざ人によって態度を変えるのも大変だし、ならば全員に同じ態度で接せばいいと思っていただけに過ぎなかった。

それでも、真意はどうであれ当時の私の姿はある人から見れば悪いものに見えたらしいし、自身のその部分を指摘されたときは正直傷ついた。それはきっとそんな自分を、少しでも悪いものだと感じていたからだろう。


しばらくの間、私は八方美人なのか、というか八方美人ってそもそも悪いのかと悩んできた。

そうして悩んだ結果、私は八方美人かもしれないが、八方美人をやめる気はないという結論に至った。

まず、私が八方美人ではないと何度宣言しようが、相手がそう捉えてしまうのならばきっと私は八方美人なのだ。

そして、きっと私はこの生き方をやめる気はない。というか、やめることができない。やっぱりわざわざ自分から好きや嫌いを作って、人によって態度を変えることは大変だと感じてしまうのだ。

なので、私は八方美人でもなんでもいいから、基本的にみんなに愛想を振りまき、やさしくすることを選んだ。

けれど、ひとつだけ変わったことがある。

楽よりも心情を優先するようになった。

みんなに同じ態度をするのはある意味とても楽だった。それでも、それによって精神がすり減ってしまうことも幾度かあった。

なので、やさしくすることが辛い相手にはほどほどにやさしくするようにするなどをしながら、自分のやさしさで自身が傷つかないように気をつけるようになった。

今の私は八方美人だ。けれど、とても幸福だ。

楽しかった会も終わり、家について携帯を開くと、2人からメッセージが届いていた。どちらも「今日はありがとう、またやろうね」というお決まりの文面に丁寧に絵文字と簡単な感想が添えられていた。さすが元(現?)八方美人。

さらに主催者の方は「君はやっぱり優秀だから、人類が滅亡しても君だけは生き残るんだよ」とどういう脈絡でその結論に至ったんだと思わせる謎の一文でメッセージは締め括られている。

私は内容の取りこぼしに細心の注意を払いながら、使い慣れない絵文字と共にメッセージを送り返した。

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