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劣等感や無力感に苦しむオタクへ

たくさん現場に行くことや、たくさんチェキを撮ることを愛と言うオタクもいるかもしれない。

人あたりがよく人望があるだけの人を心の底から尊敬してるオタクもいるかもしれない。

むしろ、そうした行動や人間性のオタクを「強いオタク」と大抵の人は褒めそやすのだろう。

否定はしない。
時間もお金も気持ちもそこに使うことは、自分の何かを削ったり捧げているのだから。

しかし、私はただの趣味や遊びに価値判断を置くことに飽きた。
他人がしていることや自分のしていることに優劣をつけることに飽きた。
自分が好きでやってるだけのことに自分で優劣をつけたり、他人から優劣をつけられることほど虚しいものはないと思う。
もし、そんなもので一目置かれようだ、好かれようだ思っているのだとしたら、馬鹿者と言ってやりたい。
他人からわざわざ嫌われる行動をするのも馬鹿だが、わざわざ趣味に競争を持ち出してまで病むのはもっと馬鹿だ。
他人に100点だなんて言わせるな。
自分にとっての100点をいつでも叩き出せ。
その100点はなんの100点か?
「楽しさの100点」だ。
楽しさの最大化をやれば、あとは他人に何を言われてもわざわざ「自分はこれだけやってる。(だから評価しろ)」だなんて言わずに済む。
自分が楽しんでることに説明などいらないからな。
他人をわざわざ説き伏せることもせずに済むぞ。

こうした心構えは足元がぐらつかないから、何だって出来るし、すべて次の「楽しさ」のためにフィードバックされるし次に活かされる。
そして、その姿勢こそがアイドルの力になりたいと思うオタクにできる精一杯なんじゃなかろうかと思う。
私が笑顔だったら、推しも笑顔になるだろう。
不安や不満だ見栄だなんだ、そんなもの、本当はどうでもいい。
私の愛はそんなもの考慮しない。
「いつでも楽しめ、いつでも愛せ、好きに生きろ」
魂がそう言っている。私にそう投げかけてくる。
そして推しにも同じように思う。
推しが笑顔だから、私も笑顔になる。
すべては循環だ。

もし、推しが不安に思うことがあれば、心の思うままに言えばいい、「大丈夫だ」と。
自分がついてるから大丈夫と言うのもいいし、君自身に力があるから大丈夫と言うのもいい。
どれも事実だ。
もちろん、「ここぞ」というタイミングを見定めないと心には響かない。
ハリボテの言葉は毒になるからな。

なにか積極的に行動を起こすことを愛だと言うのならタイミングをはかってじっと待つのも愛だ。
愛は見定める。

君の愛はなんと言っている?

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