見出し画像

そういうんじゃねえんだよなあ

こんにちわ、rinnです。
今日も今日とて、言いたいことたくさん。
社会人になってから2回目のnote投稿をします。

その① サラダを取り分けるか否か

私は世で言う「女子力」のようなものを意識して生活していない。
そもそも「女子力」ってなんだ。おなごが1歩引いたところで人を立てろ的なやつ?絆創膏をポーチに入れてて女子力高い的なやつ?

私は基本的に人に酒を注ぎたくない。
自分で注げよと思う。
なんでそんなルールがあるのか解らない。

サラダだってそう。基本は自分で食うものは自分で取れよと思う。
しかし、例外はある。

私の目の前にサラダがあり、すぐに私は目の前のサラダが食べたい。
よし、食おう。
しかし自分がいる卓には空の取り皿があるし、仲良くさせてもらってる同期は私と対角線上の位置に座っているため、サラダの皿が遠いのである。

サラダをむしゃむしゃ食べるにあたって、自分がサラダを取るついでに対角線上の同期のサラダを取れば一石二鳥なんじゃないか。
たったそれだけの理由で「これ取ろうか?」とやった。

なんだけど、周囲の人間は私がサラダをみんなに取り分け出したと思ったらしい。
その証拠に、「それやらなくて良いんじゃね?」と言われた。
だから敢えて言った。「いや、この子皿が遠くね?私がサラダ食いたいからついでにやるだけ」と。
しかし飲みの席なのできちんと私が伝えたいことが伝わってるかは分からない。

私は自分から進んで「役割」をやろうとしたのではなく、単純に「自分がサラダを食いたいから」サラダ取り分けようか?と対角線上にいる人にだけ言った。

しかし、私の左隣の人がノリでお願いしまーすと私に言ったので、私がその「役割」を担っている「風」に場の空気が決定付けられてしまったのを感じた。

いや、君にはやらねえよ。

私は私の対角線上にいる人に対してだけそれをやったんだ。サラダくらい自分で取れよ。皿が目の前にあるだろ!!!!!

と後から思ったけど、その場の流れの空気を読まざるを得なかった、というもの。
私も酔っていたし、判断は「空気」に飲まれてしまった。

私はこのように場の空気に流されることを恥じてしまう傾向にある。まるで自分の意思がないようで。

次からはちゃんと言おう、いや私はサラダは皿が遠い子にしか渡さないよ、と。

なんでも、世の中は「役割」にこだわりすぎている気がする。
サラダを取り分けるというルールを辞めましょう、という発言がバズったことがあるらしいが、何も「役割」をやるかやらないか、だけに2分されるものではない気がする。サラダ取り分け問題。

私は対角線上の人にだけは自分のついでに渡すけど、両隣の人には自分で取れよと思う。

このような繊細な「機微」はSNSではバズりにくいのは私も重々承知の上でこの発言をするが、そういった「機微」は人間には付きものなので、必ずしもSNSでバズったものだけが人間の生活に息づくわけではないよね、と。

人間は複雑で繊細な生き物だということを、このnoteでは今後も書いていきたい。

これを書くと、サラダを取り分けるのが「自分のついで」ならそのついでに他の人にもそれをやれよと思う人も思うかもしれないけど、私はボランティアはやらない。自分でできることを自分でやった先に、対角線上のサラダの皿が遠い人にだけ私が「やりたいこと」をやっただけ。

いまいち伝わりづらいかもしれない。
でもそれでもいいよ。
私は世間一般から見れば「冷たい人」かもしれない。
でもそれでもいいよ。
だって世の中には絶対的な「正しさ」はないなんて、一体どれだけの人間が考えるのだろうか。
私は「正しさ」が自分の中にだけある前提で生きているので、人の「正しさ」と私のそれはまるっきり違うという自覚がある。

私は「役割」をやりたくない。やりたいからやる。
ただそれだけ。

その② 正論を言うか否か

正論、それは世間で忌み嫌われるもの。
かもしれない。
正論を言うと、それを否定と捉える人がいるし、そのような人は少なくないと私は考える。

ケースバイケースだけど、正論を言う事がその場に相応しいのか、そうでないのか。

私は正論に関してはかなり考えてきた方だと思う。

自分が言いたいことを曲げずにその場でちゃんと言いたい。それが毎回の発言でできればどれだけ楽だろう。
人間が複数人いる場所で果たしてそれができるのか。

堂々と人が複数人いるような場所で正論を言う人がいると、羨ましいなぁ、と思うことがあった。
私にもあれができたら、自分の気持ちに嘘をつかずに心地よい生活が送れるのだろうか。

しかし、繰り返すようだが私はnoteの投稿でさえも下書きを溜めている。

自分の表現で誰かを傷つけることが想像できてしまって投稿まで至らない。
この「表現で誰かを傷つける」というのは、例えば「お綺麗ですね」という言葉で傷つく人がいる、ということについてここでは書いている。
これについては「正解」を探し出すとキリがなく、この「正解」にピタリと当てはめようとすると最終的に自分自身が行動出来なくなってしまうという本質的な問題があるので、投稿ボタンを押下するときには思い切って押すようにしている。
もちろんnoteの全ての記事は後から読み直して、何度も加筆修正を加えている。(それでも誤字脱字が減らないのは何故。笑)

これは持論だが、人は社会的な生き物で感情で生きている生き物。
だから人と関わって生きていきたい。
そんな人間が、例えば理論武装をして目の前の相手に正論をぶちかまし、相手をけちょんけちょんにしてやり込めるという意図を持ってコミュニケーションをしたらどうなるだろうか。

きっとそれをやられた相手は二度とその人とは話したいと思わないだろう。(ドMは別。)

これについては、「意図」を持っていなくても同じことが言える。

例えば「努力は必ず報われる」というもの。
「結果が出ないのは努力をしていないから」というもの。

私は、努力は自分が望んだ形ではなくとも、違う形で報われるというのはあると思う。
ここで言う「結果」とは、世間から「この人は努力をした」と認識されることだとも思っている。

私は人より結果が出るのが遅く、それは本人の努力云々の話ではなく、単純に物事を自分の身体に落とし込むスピードが人よりも遅いという事実があったりする。努力でどうにかなる、というのは一旦横に置いておいて、もう、先天的にそういった性質なのである。(もちろん時間をかければ結果を出せるのだが、如何せん第三者にも分かるような、外から見て分かりやすい結果が出てくるのが人よりも遅い。)

これについて少し掘り下げて説明すると、私は小学校低学年のときに親の勧めでWISC III という検査を受けていて、その結果で「動作性」が平均以下ということが判明している。
これは「100人中 下に入るくらい」と当時の母のメモには記録が残っていた。(この言葉についてどのような解釈をするのが適切か分からないが、)おそらくだが、100人くらい人を集めて上から順に成績順に並べていって、私はその中の下の方の順位になるという風に解釈している。

アルバイトの経験で、今この場でやるべき作業について自分で考えて適切に動けるようになったのはおそらく入店から8ヶ月後ぐらいだったように記憶している。

これに対して、例えば「結果を出すのが遅いのは本人の努力不足」と言う人がいたらどうだろうか。

私は爆速でその人から逃げるか、逃げられなければ心のシャッターを下ろしてしまう。

これを言われたらもうそこまでである。

これを言う本人が、「結果を早く出せない奴とは関わりたくない」と思っているのであれば、別にそれは本人の自由であるのだし、私はそれを見届けるだけである。

だけど、不思議なことに、それを言う本人がそれを言った後にも私と仲良くしようとするという場面に出くわしたことがあった。

私は爆速でシャッターを下ろして逃げた後だった。

私はその批判的な態度を彼女からの「拒絶」であると認識したため、もう今後彼女は私との人間関係を継続する意思はないものだと思っていた。

怪訝な顔をして私の「努力不足」を批判することが別に悪くはないし、これはそもそも人格否定ではないし、
結果が出ないのはもちろん私の自己責任、私の人生であるので、彼女をとやかく批判するつもりはなく、
私の結果が出るのが遅いのと、彼女が私に対して批判的な物言いをするのとでは全くの別問題であると私は認識している。

私から「拒絶」と受け取られてしまった事実について、彼女はどのように感じているのだろうか。

私が他者からの批判に過剰反応しているだけなのだろうか。

仕事であったらなんでもござれ(人格否定は別、爆速で逃げる)なのだが、
なんでも、複数人で何かを頑張る団体においてこのような言われ方をするのは、最早風物詩のように私の生活に定着してしまっている。

私は未だに認知の歪みを抱えているという自覚があり、この自覚は時として自分自身の感覚に対して疑心暗鬼に陥ることにつながる。

なのでカウンセリングを受けている。

事実として、このような批判をすることと、自分がそれを受け取ることは別問題としてある。
これは事実である。

しかし、先日カウンセラーさんから、「自分が感じたことを大切にすること」と口を酸っぱくして言われた。

私はこのような批判を継続して受けてきた人生であったが、事実と感情を分けて考えたところで、実際に感じていることは嫌悪感や恥、罪悪感、怒り、などである。

自己主張がそうやって上手くできる人は羨ましいなあ、とカウンセラーさんにボヤいてみたけど、このやり方って、「本当に上手いやり方なのかな?」と言われた。

確かにここに、正論を言われて落ち込んでいる人間がひとりいることに変わりはない。

正論を言われて落ち込んだり怒ったりする人は自分に正直に生きていない、と批判する人もいるけど、自分に正直に生きるって実は様々な段階を経て行き着くところであると私は考えているから、
正論を言われて落ち込まない自分でいられる状態になる、というのは本当に難しいことだと思う。

実は、「正論を言われて落ち込んだ自分に対して落ち込んで」いた。

正論を言われても落ち込まない自分でいたかったからだと思う。

そんな自分でもいいよ、と言ってあげたい。
正論を言われて落ち込んでいる自分も、正論を言われて落ち込んでいる自分に落ち込んでいる自分も本当は抱きしめたいけどまだまだ先になりそうです。