刀剣の奥に存在するはずの「美」のイメージをとらえたい
審美眼の話
ホンモノを見続けることで、審美眼が鍛えられるという。美的感覚のある人は、間違いなくこれが美しいという基準を持っている。
それは、その人独自の基準ではない。料理研究家の土井善晴さんはフランスにいた若い時、ひたすらに美術館通いをした経験がよかったと語っていた。盛り付けにも活かされるのだろう。美の価値がわかる人が行くと、その人たちが「よかった」と評価するもの、その「よかった」品のランキングも完全に一致するとも土井さんは話していた。
美的感覚の優れた人たちにとって、形なのか、色なのか、ひっくるめて、纏う雰囲気なのか、それは絶対的な基準と言い切る方も多い。
余計な情報を持っていない若いうちにたくさんの「ホンモノ」を見るほうがいいのだろうけれど、四十代後半の今からでも、美的感覚が身につかないかと思い、時々、美術館や博物館に足を運んでいる。審美眼を鍛える目的だけではないけれど、
書道博物館で書を見て、
写真美術館で写真を見る。
絵画も見る。
絶対的な美的感覚はおそらく1mmも身についていないが、自分の好き嫌いや、好きな理由、嫌いな理由は何となく、自分の言葉にできるようになった。そんなホンモノに触れる旅の途中だが、刀剣だけはわからない。本当にわからない。自分の好き嫌いすらもない。
良し悪しがわからないので、博物館に刀剣があれば、脳内でその刀を振ってみて、これは(重すぎず)振りやすい、これは(刃が反っていて)人を斬りにくそう、などという物騒な想像をするのみだ。
が、美的感覚は、刀剣や茶器、絵画、書、に関わらず、物体のその先、その奥に「美」のイデアを見るんだろう。刀剣もどうやら、「美」の感覚で見れるのではないかという話を聞いたことがあった。だから、刀剣も良し悪しがわかるようになりたいと思っている。墨田区に住んでいるので、刀剣博物館も、そんなに遠くない場所にある。
接する機会を作ろうと思えば簡単に作れるのだ。三度、刀剣博物館にお邪魔したことがあるが、全然見方も良し悪しもわからなかった。良し悪しを感じることを一度諦めて、次は、刀剣に関する知識を得てから、再訪するつもりでいた。
仕事の話「刀鍛冶」
「仕事の話」を、ほぼ日の奥野さんが専門家にインタビューする記事のシリーズで、「刀鍛冶」のお話を聞く回があった!
やっぱり! 刀剣も見れば絶対的な良さがわかるというではないか!
しかも、こんなこと(↓)も言っている。もう、知識なんてほどほどに、何度も見に行こうと思った。
刀剣の美について
いい刀剣は、新しい時代のものでなく、平安・鎌倉のものが至高という。
その土地、その時代によって、鋼の質が違い、必ずしも、新しい時代の鋼がいいわけではないそうだ。鋼の質がよければ、工程が少なくて済み、結果、失敗のリスクも軽減され、シンプルな工程は洗練された出来上がりにもつながる。シンプルな工程なら、試行回数も多く、作られた本数も多かったろう。
製鉄や鍛冶の技術が、時代が変わる時に、失われたりもしたという。
何でもnoteに書いてしまう私としては、言語化の助けになるので、知識を身に付けることが悪とは思わないけれど、”見ればわかる、” のであれば、とにかく今はたくさんの刀剣を見て、少しでも自分の基準を作ろうと思う。
年間5回、10回と行ってみよう。どうせそれくらいじゃわからないだろう。過去の来訪の際は、何とか言葉にできないか、何度も名物の前を往復したし、よさそう…とおぼろげに感じる刀剣の前に何分も立っていてすら、良し悪しがわからなかったのだから。とにかく何度も行ってみた結果、来年、再来年に、ふと博物館で名刀を前にした時、(こ、これは!)と心から驚ける体に仕立てたいと思う。私の審美眼は、決していい素材ではないかもしれないが、鋼のように他所から持って来れないので、熱して、叩いて、伸ばして、折って、叩いて、を繰り返すしかないのだから。
再来年頃の私に期待しよう。とても楽しみだ。
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。