見出し画像

北条政子に関する課題原稿を公開してみる

6月末、こちらの企画を見つけた。

最初、30歳という年齢制限もあったので、スキップしていたが、後日、あまりに年齢制限を言い訳にするツイートばかりを見かけた企画者の田中泰延さんが年齢制限を撤廃された。

その後、さらにTwitter上で煽られて、書くことを決めた。

あまり時間もなかったので、とにかく課題の最低限の3千字だけでも書いて送ることにした。その時の調査の様子はこちら。


以下、恥を忍んで公開してみる。

正直、どうせ書くなら最初から取り組めばよかったと思うし、論も浅い。さらに元の文献に当たるべきだったと思う。どれくらい時間をかけて調べるのか、少しあたりがついただけでもよかった。人より書く仕事を始めた時期は遅いけど、辞める気もないので、精進しようと思う。

 ↓↓↓↓↓

私と北条政子 ―中世の女性の出家と剃髪と北条政子のイメージについて―

北条政子への興味のはじまり

私にとっての北条政子はあれだ。鎌倉の安養院に安置されている、あの剃髪して無表情の像だ。鎌倉以来、実際にはあの像が作られ、写真が出回った以降、ずっと誰もがイメージするあの像である(明治~大正にかけて、過去の政子像をもとにして制作された)。令和四年には覇気のある小池栄子の顔写真に上書きされようとしているが、おそらく今後も変わらぬイメージだろうと思う。
小学生の頃、社会の資料集で初めてあの像を見た。当時の私は、髪を剃った尼僧を見たこともなければ、世の中でもスキンヘッドの女性はめずらしかったと思う。おそらく、初めてみた女性のスキンヘッドが北条政子であった。

正直、見た目が女性にも見えなかった。
小野妹”子”って男だから、政”子”って言っても男なんじゃ… え、頼朝の奥さん?! ほんとに?! こんな怖そうな人と結婚するんだ…

私が初めて持った北条政子の感想だ。

次に私が北条政子のことを思い出したのは、高校生の頃。
源氏物語の中で女性が出家して肩あたりまで切ってそろえる、というエピソードを聞いた時だ。
え、北条政子は?
出家したら髪を剃るんじゃないの?
え、北条政子は、やばい人だから髪を剃ったの?

北条政子が歴史上初めて女性で剃髪したという史実があれば、きっと、クイズ番組の問題にくらいなっているはずだ。クイズ番組が好きだった高校生の時にも、そんな話は聞いたことがなかった。北条政子がいた時代、女性が出家した場合に髪はどうしていたのだろうか?

髪を剃った、あの無表情な姿。日本史でいう中世が始まった時代、北条政子は当時、周りにどう映っていたのだろうか? 尼将軍と言われた彼女は、多くの人の中心にいたこともあったろう。 武家政権のはじまりに、屈強な男性の中心にいる政子はどう映ったか?

中世の女性の出家と剃髪

六世紀半ばの仏教伝来頃、女性の僧も髪を剃り落していたそうだ。
七世紀末、律令制のもとでは僧の管理を行う「僧綱(そうごう)」という組織で女性の立場はなくなり、八世紀以降では、尼は国家的仏事にも関われなくなり、尼の得度も制限された。さらに九世紀以降、女人禁制の思想が、僧侶や貴族に広がる。
髪をそろえるという出家後の姿としては不完全な「尼削ぎ」という段階は、平安時代に特に見られたものらしい。そして髪の長さが身分を表すような時代、髪を無くしてしまうことは女性にとっても違和感が大きかったのかもしれない。では、その後、女性の出家はどうなったのだろうか?

古代末から中世の女性の出家について書かれた勝浦令子著『女の信心ー妻が出家した時代』(以下、『女の信心』)を参考に、北条政子がいた時代の女性の出家を追った。

夫が亡くなって、女性が出家するという形は北条政子の時代、すでにあった。ただ、出家することによる家への関わり方については、一通りではなかった。
11世紀後半、夫が亡くなって妻が出家した場合、婚姻関係が続いた場合と婚姻関係が断絶したケースと二通り、存在していた。
一つは、家に関わり続ける場合、

「(平安末期から鎌倉幕府が開かれる前までの)院政期には、夫死後に妻が菩提を弔い寡居する出家は、婚姻関係の継続を前提として理解されていたことがわかる。」

「中世では、夫が死去した場合、妻や近親の女性が出家して尼姿となる例が増加し、夫への菩提供養と寡婦の貞操をまもることは、残された妻のあるべき姿とされた。」

一方、

「(院政期)夫死後に出家しても夫方との関係を継続しない場合も増加しつつあったことがわかる」

家に関わる場合と家を離れるケースの両方があったということだ。
源頼朝が亡くなった時、政子の長男である頼家に幕府の運営を任せておけない状況があった。頼家の乳母である比企家の発言権も強く、実家の北条家もまだ安定していたとは言えない。出家したからと言って、政子は家を離れることができなかっただろう。

私が気にしていたこの時代の女性の出家時の髪型についてはどうだろう。

「古代末から中世に入ると、夫の菩提を弔う妻の落髪出家は、必ずしも完全出家ではなく、(中略)髪型は見習い尼としての尼削ぎにとどめておく場合もあった。」

『女の信心』では、鎌倉時代末期の万里小路季房の妾だった近衛局を例に、落髪出家して、正妻の傍らに勤め、その後、万里小路の実務を取り仕切ったという例があった。この例は、政子の時代の後ではあるが、鎌倉時代、女性の剃髪についても、両方のケースがあった。政子が特別というわけではなかった。

では、女性の僧がどう見られていたのか。

「さて、最後に尼の身分と自由の問題について若干述べておきたい。僧尼として出家することは、理念的原則では、蓬髪や剃髪によって異形の姿になることであり、世俗の縁から離脱し、世俗の身分を捨て、世俗と別の階層原理に基づく僧尼の世界に属することであった。」

男性の僧と同様、世俗から離れるという意味は変わらない。女性については、さらに異なる意味が追加される。

「女性が公的な場に出て、ある程度男性と対等に扱われるには、位階をもつか尼になることが有利であった。」

頼朝の死を重くみての出家、将軍の母、権力が強い北条家の人間、としてだけではなく、表向きにも私利私欲を離れて発言をするためには、政子は出家するしかなかったろう。出家により、一定の立場を守ったとも言えるかもしれない。剃髪は、政子の決意を示すためなのか、剃髪自体は、珍しくはなかったかもしれないが、形から、特別な記号を周りに示すため、剃髪も当然の判断だったのかもしれない。

「周知のように、中世の世俗社会の中で女性の役割が規制され、公的な場から次第に排除され、また男女の差も激しくなったとされている。」

頼朝が開いた鎌倉時代以降、女性の役割が低くなっていく。政子の場合、出家と剃髪という形で、男性と対等の役割を手に入れることになった。日本史上、表だった女性の権力のピークがここにあったのではないだろうか。

北条政子の強いイメージ

北条政子のイメージを作るのは、彼女が持っていた権力だけではない。北条政子ほどイメージが強固な歴史上の人物がいるだろうか。
令和の今、何だって、二次元女性の萌え絵になる時代。アーサー王も、伊達政宗も、女性として受肉し、かわいい姿に変身する。馬でさえ、そして牡馬だって、かわいい女性になる時代。しかし北条政子のイメージは、大きくぶれない。同じ時代を生きた、白拍子であった静御前、木曽義仲に使えた巴御前も、萌え絵によって、いろんな恰好をさせられるが、北条政子(特に出家後)は、あまり多様性がない。いろんな種類のイメージが取られる現代においても、北条政子は、あの像のイメージがとても強い。女性の僧、政治のトップ、剃髪しているというイメージはなかなか上書きされない。

政子が生きた時代以降、女性の地位が下がっていく。江戸時代には、儒教的な世界観の中、政子についても、政治的な手腕よりも、女性のいやらしいエピソードが広まっていく。頼朝の寵愛を受けた亀の前への所業、頼朝の死後、息子を死に追いやった権力者として、三大悪女とまで言われるようになった。

北条政子の場合、史実や印象に残るエピソードよりも、特に、女性の役割の変化、世の中からの女性の見られ方の変化によって、その時代の見え方が変わっているように感じる。それでも、あの強力な像のイメージに、付与されるラベル「強い女性」「尼将軍」「三大悪女」の違いに過ぎない。

北条政子の見え方・イメージについては、まだまだ調査の余地が大きい。
今後の調査結果は、
「時代ごとの北条政子論」「イメージが定着する歴史的人物の特徴」として、まとめる予定だ。待て次号!!


いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。