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酷いものを酷いと言えること

アートとは新たな表現の探究。しかし人は自分の体験に基づいてしか評価できないので、見たこともないものに出会うと戸惑う。その戸惑いを紐解くために、作家の意図や作品の背景を読み、理解していく。その美と知の探究プロセスも含めてがアートの楽しみである。

ここまでは理解できます。皆が感動するものはエンタメであってアートとは違うという人もいます。まあそれもいいとします。そういうものかもしれないし。

しかし、難解であろうと意味不明であろうと、なんだかわからんけどザワザワする、というものがあるからのアートだと思います。そのザワザワする感性さえも知識がベースに育まれるものだというのは、人を見くびり過ぎです。人は本物を前にしたときに、本能的に畏れにも似た感情を抱くものです。(それをうまく言葉にできないだけ)

なにが言いたいのかというと、理解できなかったり、理解できてもそのアウトプットとしての作品を見て何も感じないのを、自分のセンスや知識がないからだと思わないで、素直に「糞だ」って言っていいということです。コンセプトとかアプローチは面白いけど、アウトプットが酷いもの結構あります。その判断を、わかりにくからと評論家やキュレーターましてコレクターに委ねるものではありません。なので皆さん、アカンもんはアカンと堂々と言いましょう。間違っていることを恐ることはないです。現代アートは難解かもしれないけど、難解なものが必ずしもアートではないのだし。難解な作品にさらに難解な解説を付ける評論者は言語道断だし、作り手もコンセプトとかステートメントとか言い過ぎ、という気もします。(言葉の大切さを否定するわけではないのですが)

SNSが批評力を落としている面もあると思います。誰でも、ネガティブなことは書きにくいし、他人がディスっている書き込みばかりを見たくもないですから、どうしても美点凝視で褒めるコメントが並ぶのは自然のことでしょう。でも、今日は3つ展示を見てどれも素晴らしく感動したとか、そんなラッキーな日ってめったいにないはず。普通に考えれば、10の展示を見たら素晴らしいのは1つあれば超ラッキー、2つはまあまあ良かったかな、3つはごく平凡、残り4つはダメダメだった、くらいでも充分に素敵な一日ですよね。

もっと批評力を高めましょう。酷いと思ったものは酷いと言えること。それがアート。ボク個人の率直な感想で言えば、素朴で自然豊かな素敵な島に水玉の置物はいらないと思ってます。そういうことも、普通に言えるようにしたいです。

最後に脱線すると、アートか否かを論じるのは作家の思う壺。良くないと思ったら、アートとさっさと認めた上で何も感じない、とだけ言った方がいいです。批判より無視が一番の酷評です。

今回はマーケティングから脱線して、現代アートについて書いてみました。専門に学んだわけでいないので、的外れかもしれません。


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