飲み会の、傷モノ。

飲み会はむずかしい。

ちょっと失礼しますね、と席を立った10秒後に訪れる、孤独。
自分の発言を反芻し、トイレの中で過ちがなかったかどうかを確認する。演劇だったら舞台袖でおこなうその作業は、自分が役者として二流であるという、都合の悪い現実を思い起こさせる。
そんな現実に抗うように、飲む。酔いの回りがはやいわたしの体は便利だ。失態を失態と気付けないくらいに、日本酒1杯で判断力を鈍らせてくれる。

じゃあねと別れたあとの、やけに大きな音をたてて耳元を通りすぎる夜の風。
帰りの満員電車のむっとする空気。明日も仕事か、と息だけで呟くと、淀んだ空気はさらに重みを増す。喩えるなら…そうだな、濁った紫色のゼリー状の物体、みたいなものか。

飲み会で、わたしは気が利かない。
それに気付いたのは21歳の頃。セミナー運営のアシスタントをしていた頃だ。
サラダを取り分けたり、空いたグラスに気付いて注文を促したり、お酒をついであげたり…そういう、"若い女性がやるべき"ことができなかった。
当時の上司に指摘され、泣きそうになりながらずっと食べ物を取り分けていたことを、よく覚えている。
いちばん年下で、しかも女の自分には、飲み会を楽しむ権利などないのだ。それはきっと本来、部活やバイトやゼミで学ぶことだ。それを社会人になるタイミングまで知らずに過ごしてきた、自分の無知が悔やまれる。

話しながらグラスの空き具合を確認したり、そういう同時に複数のことに注意を向けるのが苦手というASDの特性は、若い女が社会人として生きていく上では致命的だ。
気が利かない、気がつかない。男だったら「こいつ気が利かなくてすんません」と苦笑いで済まされるかもしれないけど、女のそれは笑えない。あらゆる場面で「気配りのできる女性」は求められる。存在価値に直結する。だからこそ、それができないわたしは、傷モノの見切り品野菜みたいなもんだった。

そんなわたしが、悪目立ちしない程度の人並みの女性を演じるために、役に立たないというレッテルを貼られないために、ひとの2倍、3倍努力する。張り付いた笑顔が刻まれる度に増していく、体のこわばり。そうして疲れてトイレに閉じこもる。ひとりの空間以外は安心できない。安心した瞬間、溢れそうになる涙。しんどいよ、と、膝と膝の間のタイルに向かって、声にならずただ生成されてしまった吐息が助けを求める。

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20代の頃のわたしが考えてたことをなんとなく綴ってみた。こんな20代だった、と思う。
自分の居場所はどこにもないような気がして、認め受け入れてもらえる場所作りに必死になった。
そもそも自分が自分を認めてないのだから、居場所がないのは当たり前だったわけだけど、そんな灯台下暗しな事実にさえ気付けない、視野狭窄だったわたし。普通に足がつけるはずのプールで、毎日溺れそうになってた。大変やな。

で、自己受容のはなしの完結編はいつ書けるのだろうか?

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