Atsu
人生も50代に差し掛かると親が突然介護になることに遭遇します。 突然介護になった場合、その周囲はどう行動すれば良いかを実事例を元に紹介します。
ストーマ閉鎖の手術から1年が経過した頃、10年以上住んでいた場所から引っ越しました。家内の直感で春先に物件を見つけ、2ヶ月もたたない期間での引っ越しでした。短い準備期間でモノを処分したり売りに行ったり、新しい照明を購入するなど、多忙な日々を過ごしました。 新しいマンションは偶然海が近い場所でした。物件を下見した後、Google Mapを参考に通路がある場所を目指して歩くと、海に続くトンネルがありました。そのトンネルを越えて海を目にした時、家内は感動で涙を浮かべました。 引
家内のケースは、かなり異例です。抗がん剤治療がないのは不幸中の幸いとしても、癒着の影響がレントゲンやCTでは分からないので、痛みをどう防げばいいのか明確な答えがないのです。明らかに避けるべきは、便を溜めないことです。そこで食事量には非常に神経を使い、便が出ない場合は下剤を使ってでも出しました。 下剤もいろいろな種類を使いましたが、明らかに家内には合わないものもありました。 試行錯誤の繰り返しです。 試行錯誤は、病院に対しても同様です。様々な胃腸専門の病院にも行きましたが、大
なんとか新しい年を迎えました。当時のマンションには10年以上住んでいましたが、初日の出を見ることはなかったのです。この年、気功でよく歩いている河川敷まで行って初めて見ることができました。太陽の光を受けて、家内が生き抜いてくれたことに深く感謝しました。 前年の正月は家内にがんがあることが分からず、世間と同じような三が日を過ごしていました。しかし、何かあるのが人生です。 前年の家内のがん発覚からの出来事を振り返ります。 1月 直腸がん発覚 2月 病院で検査三昧 3月 腹腔鏡手
波乱の年が終わり、になるかと思いきや、そうは問屋がおろしません。法要から帰宅して数日後、家内の身辺に次のようなおかしな現象が立て続けにおきました。 1 野菜スープ入れのガラスの瓶の底がいきなり割れて、スープが床下にこぼれた。 2 コーヒーカップがいきなり割れた。 3 ビニールを二重にして割れ物を捨てようとした際、いきなり破れて中身が撒き散った。 4 家内を見た猫が突然飛び上がり、その後家内を恐れしげに見ていた。 これだけのことがあると、おかしいと思わざるをえません。何か取
今回は何事もなく、予定通りに退院ができました。 そして家内と今回の顛末について会話し、想定される原因と今後の予防策を整理しました。 【想定される原因】 ・朝に普段食べないライ麦パンを食べ過ぎた。 ・午前中にZOOMイベント参加予定のため、朝食後の気功を短めにした。 ・ZOOMで座りっぱなしが続いた。 ・ZOOMでは途中で司会をするため、水をあまり飲まなかった。 【今後の予防策】 ・消化の良いものを食べる、食べ過ぎない。 ・運動して腸の蠕動(ぜんどう)を活発にする。 ・身体
6月は私たちにとって二つの特別な日があります。28日は私たちの出逢いの日、30日は家内の母が肺がんにより旅立った日です。 21日に手術、28日までに退院できる予定でした。ところが想定外の開腹手術に加えて、術後の大量出血から30日の命日に間に合うか微妙な状態でした。 家内は命日までには何としても帰りたい一心でした。その想いが通じたのか多少回復したこともあり、無理を言って29日に退院しました。 ここまでの経過は次の通りとなります。 ・がんの部位は直腸上部 ・腹腔鏡手術でリンパ
6月に入り家内の体調も安定したため、ストーマ閉鎖手術の日程が決まりました。手術日はこの年の夏至、月曜でした。 病院の言われるまま最短の日程を受け入れたのですが、入院は前週の金曜のため、何もしないのに週末を病院で過ごさなければならなくなりました。そもそも、本来手術日の2日前の入院になるはずが、病院からの提案をそのまま受けてしまったのは反省でした。 全体的に言えますが、病院からの提案は患者ではなく病院の都合を優先します。そのため、病院の提案をそのまま鵜呑みにするのは要注意です。
家内が退院して2週間が経過した頃には、鎮痛剤を飲まなくとも痛みをなんとか我慢できる状態をキープしていました。ただ体重が平時よりかなり減っているため、無理が禁物な状態が続きます。 入院前まで、家内はがんの成長を促す食材はストイックに避けていました。特に塩と砂糖を取らないことを強く意識して。入院前に読んだがん関連本を通じて、砂糖はがんの栄養分になり、塩分はがんの新陳代謝を促進するとわかったからです。 砂糖なしの食事は何とかなるものの、塩分なしの食事を組み立てるには相当難易度が
春、日本は桜の季節を迎えます。近くの公園では桜が咲くので、お酒とおつまみを持って夜桜を楽しんだものです。 前年からコロナ禍のため、この年も花見は禁止となっていました。もっとも、この状況で花見を楽しむなんてないですが。 ステージ2が確定した翌日、退院して最初の週末を迎えました。次の週は私の誕生日なので、家内がプレゼントを買うと言ってくれました。百貨店ではエレベーターを待つ間、家内は立っている状態がしんどくなりベンチに腰掛けるなど、休みながら何とか家内の分も含めて財布を新調しま
退院した翌日、家内が無事帰ってきた安堵感とこれまでの心労も重なり起床が遅くなりました。この日から家内の試行錯誤の生活が始まります。 お腹の痛みは取れず、想定外だったストーマ対応もあります。 少し動いては横になる、の繰り返しでした。 病院の急な呼び出しから二週間が経過しました。この時期、本来はリンパ節に転移があるかどうかを心配しているはずでした。 それが、命を繋ぐための開腹手術とストーマ創設で身体に相当な負荷をかけたとともに、院内での心ない対応で精神面のダメージも受けたことも
一日一日が経過し、口を含めた身体の穴から管が少しずつ外れていきました。慣れないストーマの着脱も看護師から学んでいきました。退院してもストーマのある生活に加えて、普通の食事も取ることはできないし、ストーマも一時的のため3ヶ月から半年後には閉鎖する手術を迎えます。 通常の生活に戻ることは夢のまた夢ではありましたが、まずは退院が第一の目標ということで家内は必死にリハビリをして、ストーマの着脱にも慣れるよう努力しました。 なんとしても早く退院するという強い意志を持って。 本来3月
病院に着いてナースステーションに問い合わせたところ、家内の携帯含めた貴重品を渡すだけで面会はできないと言われました。が、状況がさっぱりわからないし納得できないので、しばらく食堂で待機しました。 食堂と言われる場所は、患者の家族が手術中に待機できるよう机と椅子がいくつかあるスペースです。 少し待ったところ、家内から看護師さんと一緒に歩くから食堂の外で待っていて、と携帯へ連絡がありました。 本来とても面会できる身体でないにもかかわらず、家内は夫が来ているなら会わせてくれと看護師
事故を起こさないようスピードに気をつけました。慌てないつもりが、運転免許証を入れた財布を忘れたことを高速に乗る前に気づきました。 人間は慌てないようにと思っても、内心は慌てるものだとその時思いました。免許証を忘れたこともあり、慎重に運転しました。高速では夜景が綺麗でしたが、感傷にひたることなく、ただ何も考えずに病院をめざしました。 通常、病院に着くまで1時間以上かかりますが、ゆっくり走ったにも関わらず30分で到着しました。 夜間入口から入り、病棟で主治医から以下の説明を受けま
3月2日入院、4日に手術となりました。 コロナ禍のため入院、手術、退院の日以外の付き添いは原則禁止、病室内の面会もだめでした。ただ、手術後は特別に病室に入れるとのこと。 手術は昼から、診察した医長でない医師が執刀医となりました。入院病棟にて看護師に付き添われた家内をエレベータ前で見送り、病院から渡されたPHSからの連絡を待つのみです。 手術の予定時間は4〜5時間、ただコロナ感染予防のため手術関係者は通常の手術着以外にも防護服を着衣するため、その時間も要するとのことでした。
2月のはじめ、総合病院での検査が続きました。検査期間の間、家内とも複雑な心境で過ごしました。 総合病院の医師は人当たりがよくて、胃カメラの時ではその医師が直々に担当されていました。家内が聞くと「なんでもやりますよ」的な発言をされ、気さくな雰囲気からも家内はこの先生でよかったと思ったそうです。 この検査の週、直腸がん経験者の方からがんの部位が直腸の下部なら、がん専門の病院に行った方が良いとアドバイスを受けました。その方も部位が直腸の下部の方だったとのこと。 家内のがんの部位は
「がん」とは正常な細胞が遺伝子のコピーミスなどが原因となり細胞分裂が暴走した状態です。 原因はどうあれ、自分たちで何ができるかを探しました。ステージも治療方針も分からず、先が見えていない状況でしたが、がんの進行を遅らせる手段がないかを知り合いのがん経験者に聞いたり、ネット情報で調べたりしました。 まずは食材。 がん経験者の方からいただいた「がんに絶対勝ちたい!和田式食事法」という本を参考に食材を見直しました。肉は鶏肉以外はNGとのことであり、以後家内は牛肉、豚肉を一切食べな