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妊娠出産の話 - 2015③ 切迫部屋の人々

★おさらい 切迫部屋見取り図

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4さんこと、アイちゃんの思い出話である。

アイちゃんは私が入院してから数日のちに入院してきたお向かいさんである。

アイちゃんは爆切れ状態で付き添いの母に激しく当たり散らし、あーだこーだわめいてはなだめられながら入室してきた。

先住の我々は語らずして、彼女の入院理由から、里帰り出産の事情から、夫と夫実家の家族構成から、なんだか色々を聞き知った。


アイちゃんは検診にきたところ、切迫早産・糖尿・高血圧の診断を受けて即日入院となったハイリスク妊婦であったから、当初は予期せぬ診断と入院に取り乱してバーサク状態になっていたのかと思った。

が、通常運転であった。

毎日面会時間の開始から終わりまでフルコミットで見舞う実母に、全ベッドに声が届くほどのフルボリュームで、これまでの人生で起こったこと、出会った人、身の回りのすべてについてフルスロットルで文句を言い続けていた。
これが妊娠や現在の差し迫った病状による精神状態の変化に伴うものなのか、本来の彼女なのかはわからないが。

アイちゃんは面会時間内は常に母親と話をしているので、時間外にちょっとした会話を試みた。しかしアイちゃんの話には常に何かしらの小骨が混入しており、飲み込むたびにノドに刺さってしまう。

そして2先輩が無事に出産を終え、別部屋に移動した瞬間、ナースコールで看護師を呼び、「窓際に移動したいんですけど」と訴えでたアイちゃんを前に、私はおそれをなして窓際へ移動する権利を放棄した。


ある日、あまりに文句ばかりの娘が心配になったのか、さすがにまずいと思ったのか、根気よくアイちゃんの話に付き合い続けていた母親が「同室の皆さんだって入院ということでご不安やご苦労があるはずだしアイちゃんも…」となだめようとしたところ、アイちゃんは間髪入れず「みんな2人目か3人目だって!私とは違う!」と叫んだ。同室の皆さんでもらい事故である。

病室には重苦しい空気が漂い、この空気は誰がどう頑張っても拭われないように感じた。
と、なんとそこに救世主があらわれた。アイちゃんの夫が面会にやって来たのだ。

「アーたん!」

名前の頭文字のばし+たん付け。その声は弾んでいた。これがツンデレってやつか…!

とはいえ、話す内容はやはり文句で、その中にはアーたん自身に対する苦情も含まれているのだが、アーたんはけしてアイちゃんを否定しない。ひたすらアイちゃんの話を聞くのである。これが傾聴ってやつか…!

アイちゃんは、アーたんがやってくるその時間だけ幸せそうだったが、その他の時間は相変わらずだった。
真夜中に大きなため息をついたのちバサッと布団を蹴って起き上がると、点滴スタンドを盛大にガラガラ鳴らしながらトイレへ向かう音を聞いた日もあった。ナースコールのボタンを壁に投げつけるほど荒ぶった日もあった。

入院から1週間ほど経った頃だったと記憶している。
アイちゃんは個室の空いている他院への転院を望み、私たちに「では皆さんお達者で〜」と明るく挨拶をして出て行った。

転院先では心穏やかに過ごせたのだろうか。無事に出産できたのだろうか。できたとしたら、今ごろアーたんとどんな子育てをしているのだろうか。

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実はアイちゃんとほぼ同時期に入院してきた5さんもいた。

彼女もまた予期せぬ入院者で、妊婦検診に来たところ、切迫早産の診断を受けて帰れなくなった。着の身着のまま、切迫部屋に車椅子で運ばれてきた5さんに、私は声をかけた。

私「歯ブラシとか色々多めに持ってきているので、もしご家族から入院の荷物が届くのに時間かかりそうだったら言ってくださいね。」

5さん「ありがとうございます。今日の面会時間内には夫が荷物を準備して届けてくれるみたいです。上の子どもも連れてきてくれるって…」

私「よかったーお子さんと会えるのも嬉しいですね。」

5さん「はい!」

ところがである。その夜の就寝前、共用の洗面室で歯磨きをしていた私に、5さんが申し訳なさそうに話しかけてきた。

5さん「あの…乃木さん、やっぱり歯ブラシ一本いただけませんか?」

私「いいですよ〜夫さん入れ忘れちゃってました?」

5さん「入っていたのが、排水口の掃除用の歯ブラシで…」

入院した彼女とともに、彼女の夫も混乱の中に叩き込まれたのだろう。

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