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クリシュナ神が治めた伝説の聖都ドワールカーは実在した!!

COBRAの2023年11月27日の記事「Aldebarans」で紹介された記事「The Lost City of Dwarka」を翻訳しました。

※翻訳がお気に召しましたら、記事下部からサポートをお願い致します。

”アルデバラン人はタミル・ナードゥ州にヴェーダ文明を築き、ラジャスタン州グジャラート州にもヴェーダ文明を築きました。古代インドのラーマ帝国とドワルカ市を構築しました。そしてシュメール帝国とウルク市、現在はワルカとして知られています。”

元記事

ドワールカー発掘

クリシュナが築いたとされる伝説の聖都ドワールカーが発見された出来事は、マハーバーラタが史実かどうか検証する上で重要なきっかけとなりました。

長らくマハーバーラタは神話と信じられており、ドワーラカーは幻の都市だと信じられていました。しかしいつかは、ヴェーダ時代から現代までインド文明は続いてきたことが立証されるかもしれません。この発見はまた、いわゆる「暗黒時代」である第二都市化についての事実を明らかにしてくれるでしょう。また、ダルマの復活、海上貿易の再開、サンスクリット語と修正インダス文字の使用などの、現在真相がまだ掴めていない一連の出来事について明らかになっていくかもしれません。ちなみに、大昔の海洋環境の変動についても海底調査によって明らかになりました。国立海洋研究所海洋考古学センターの考古学者、科学者、技術者たちの献身的かつ大胆な努力の賜物です。

ドワールカーはグジャラート州ジャムナガール県の海岸沿いにある町です。ここの都市ドワーラカーは、『マハーバーラタ』にクリシュナの都市として登場する幻の聖都と同一視されています。同じ港町であるということで、エリュトゥラー海案内記などの「ペリプルス」に出てくる港町と同一視する学者もいます。

古代ドワールカーは海に沈んだと信じられていたため、ここは考古学的に重要な遺跡です。失われた都市に関する最初の明確な歴史的記録は西暦574年のパリタナの碑文に書かれたものです。そこには、かつてのドワールカーがサウラシュトラ西海岸の首都であったことが記されています。しかに、とりわけ目を引くのは「クリシュナが住んでいた」と書かれていることです。

ドワールカーの最初の考古学的発掘調査はH.D.サンカリアの指揮の下、1963年にプネーのデカン大学とグジャラート州政府考古学局によって行われました。その結果、何世紀も前の遺物が発見されました。

インド考古調査局(ASI)の海洋考古学ユニット(MAU)は、S.R.ラオ博士(インド考古学者の最高権威)の監督の下、1979年に第二次発掘調査を実施。 国立海洋研究所の海洋考古学ユニットの名誉科学者ラオ博士は、グジャラート州の港湾都市ロータルをはじめ、数多くのハラッパー遺跡を発掘。

その結果、3000年以上前に使われていた光沢の残る赤色陶器を発見。これらの発掘結果を機に、1981年にアラビア海に沈んだ伝説の都市の探索が始まりました。科学者と考古学者は20年間、この遺跡の調査を続けてきました。

海底探査のプロジェクトは1984年、当時の首相からの直接指令で始まりました。海中発掘は大変な仕事です。それに掘削ができるのは、11月から2月の干潮時だけ。さらに海面が荒れておらず、明るい日差しがあるという条件下のみです。潜水可能時間を最大限に活用するために、エコーサウンダーを使い水中の対象物の位置と深さを正確に把握しながら進んでいきます。サイドスキャンソナーなら、水中に放出したソナー信号の跳ね返りを見て海底の地形を可視化できます。途中に当たった水中遺物も、材質などから分析が可能です。その他、水中スクーターやスキューバなど、ありとあらゆる潜水用具を駆使し、1983年から1990年にかけての水没都市の存在証明に至ったのです。

2007年1月、インド考古学調査庁(ASI)の水中考古学ウィング(UAW)が再びドワーラカーの発掘調査を開始しました。UAW主任考古学者によると、アラビア海で発見された古代の水中構造物については、まだ特定には至っていないとのこと。見つかったものといえば古代建造物などはなく、何かの破片くらいなものです。当時の生活ぶりを総合的に研究するには海中に加え陸上の発掘調査も同時に進める必要があります。

遺跡の年代は物質的証拠に基づいて行います。沖での発掘では、ASIの訓練を受けた水中考古学者と海軍のダイバーが沈没した構造物を捜索。発見物は調査され、年代が特定され、文書化されていきます。陸上調査では、主にドワーラカーディシュ寺院の庭で発掘が行われました。グワリオール、ラクナウ、プネー、ヴァドダラ、ヴァラナシ、ビーカーネールからボランティアの学生が参加し、ASIの考古学者を手伝いました。

カンバット湾探査(カンバイ湾)

2001年、国立海洋研究所の学生たちはインド政府からの依頼で、海岸から7マイル離れたカンバット湾の調査を行いました。調査中、5平方マイルを覆う泥と砂に覆われた石でできた建物を発見しました。ダイバーたちはそこから工芸品や銅貨などのサンプルを収集しました。科学者たちの検査によると、それら遺物は約3600年前の時代のものであることが判りました。サンプルの一部はマニプールとオックスフォード大学に送られ、炭素年代測定が行われました。その結果はにわかには信じ難いものでした。なんと、9000年前の遺物だったというのです。

カンバット湾の海中で発見された遺跡は紀元前7500年のもの。これまで主張されてきたどの文明遺跡よりも古い、現在わかっている遺跡でも最古のものであったという事実は、実に圧倒的です。

ドワールカー発掘で見つかったもの

ドワールカー沖の海洋考古学的調査でも多数の石造構造物が発見されました。それらは半円形、長方形、正方形の形をしており、水深は潮間帯(高潮線と低潮線との間の海岸)から6mほどです。また、水深6m以深にも構造物は深くへとつながっていて、多種多様な石造物が確認されています。これらの調査結果から、ドワールカーがかつてインド西海岸で最も賑やかな港だったことが伺えます。ここが世界の中心地だったのかもしれません。周辺の遺跡との比較調査から、ドワールカーの建造物の年代は中世後期まで続いていた可能性が示されました。古代ヒンドゥー教の書物によると、クリシュナが住んでいたとされる伝説の聖都ドワールカーがこの地にあったということになります。

水中発掘調査を進めていくうち、数々の構造物や人工物などの古代遺物が発見されました。すべて水中で写真を撮影し、さらに図面で記録されています。写真撮影には水中カメラが使われ、図面はボードに描かれます。ボードには75ミクロンの透明なポリエステルフィルムが貼られ、下にグラフシートが貼られています。グラフシートを使うことで、尺も判りやすくなります。二人で写真撮影と採寸、3人目が写生します。公共事業局はゴマティ水路の開通を維持するため、この海域でしょっちゅう浚渫を行っています。そのため水中構造物に堆積してしまう土砂が、大量に発生しています。まずブラシで堆積物を取り除き、以下に代表される古代構造物を露出させます。

  • 堡塁、壁、柱、三角形や長方形の石の錨などの建築物。

  • 旗竿の基部と思われる半球形の単穴石。

  • 波を抑制するための石のL字型の持ち手。

  • 紀元前1500年に描かれた印章、碑文。

  • 紀元前3528年に作られた土器。

  • その他石の彫刻、テラコッタのビーズ、青銅、銅、鉄のオブジェ。

つい最近まで伝説の都市だったドワールカーは、実在の都市だったことが明らかになりました。ということは、クリシュナ神の英雄譚も実際の話なのでしょうか。

カンバット湾発掘現場での調査結果

カンベイ湾の海域で行われた発掘調査でも、砂岩の壁、格子状の道路、水深70フィートの海中にあった港の証拠、そして紀元前7500年にさかのぼる遺物が発見されました。回収された遺物の中には、木片、陶器の破片、当初は手道具とされていたと思われる風化した石、骨の化石、そして歯が含まれていました。出土品は、インドのハイデラバードにある国立地球物理学研究所(NGRI)、インドのラクナウにあるビルバル・サーニ古植物学研究所(BSIP)、インドのアーメダバードにある物理学研究所に送られ、炭素年代測定を受け、その結果、9,500年前のものであることが判明しました。

NIOTは2002年10月から2003年1月にかけて、湾内でさらなる調査を実施。その結果、長方形と正方形の地下室のような遺構に挟まれた2つの古水路を発見したと報告しました。浚渫によって出土した遺物には、陶器の破片、微小石、ワラぶき、暖炉の材料などがありました。これら遺物はマニプール大学とオックスフォード大学の研究所で年代測定を実施し、9000年前の人工物であると結論づけられました。

歴史家が古代インド文明は4〜5千年前だと主張していても、実際は9000年前と、考えられていたよりもはるかに古いことが証明されました。

ドワールカー遺跡は『マハーバーラタ』の幻の聖都ドワールカーなのか

ラオ氏は「ここがクリシュナが住んでいたというドワールカーだったのか」と尋ねられると、「名前板が見つかっていない」と答えました。そのため2000年1月、文化省にこの地を「インドの水中文化遺産ドワールカー」として保存し、巡礼旅行業の一大拠点として推進するよう提案書を提出しましたが、今のところ何の音沙汰もありません。

ラオ氏は提案書の中で、ドワールカーの城壁は熱ルミネッセンス線年代測定法で紀元前16世紀のものと推定されていることを書いていました。そして現代のドワールカー町の近くに実際に古代都市ドワールカーが存在したことは、1979年から80年にかけて行われた寺院付近の考古学的発掘調査で明らかになっています。約3500年前に津波で破壊された港町から浸食された瓦礫や陶器が発見されているというのが、その証拠となりました。

インド神話にはドワールカーの様子が記述されています。『マハーバーラート』によると、ドワールカーには90万もの王宮があり、そのすべてが水晶と銀で造られ、エメラルドで装飾されていました。街には大通り、市場、集会所、寺院などが立ち並び、洗練された街並みだったことが伺えます。古の時代から今日まで日常的に言い伝えられてきた伝説なので、今更存在を疑うインド人はいません。そして現在は海洋考古学部門のおかげで、子供の頃に聞いた御伽噺が現実の話だったということが明らかになったのです。

1988年には、沈没都市の調査が以下の目的で開始されました

  1. 港湾都市の範囲特定と、古代ゴマティ川岸に築かれた巨大な石壁の建造目的の追跡。結果的にサムドラナーラヤン(海神)寺院まで探査を延長した。

  2. 建築的特徴がマハーバーラートの記述と一致しているかどうかの特定。

  3. 叙事詩で言及されている「大干拓」の証拠を得ること。

  4. ゴマティ川と海の合流点の特定。

  5. 水没の原因

ドワールカーは右岸に2つの、左岸に4つの、計6つの巨大石ブロックの上に建設されたと考えられています。この6つの区画はすべて、砂岩の化粧石で造られた防御壁で覆われていました。つまり、『マハーバーラート』のドワールカーと実際の発掘結果とほぼ一致しています。例えば、発掘中に見つかった「囲い」は、マハーバーラート経典に登場する「アンタプール(ハーレム)」と一致します。

石造りの錨が数多く採掘されるのは、当時の盛んな海外貿易を示しています。大型の船は海に停泊していましたが、小さな船はゴマティ川の倉庫の近くに停めていたようです。

発掘された都市の配置、広さ、砦の壁や塁壁の位置は、『マハーバーラタ』の序文『ハリヴァムシャ』の記述と一致します。それによると、ドワールカーの面積は12由旬。

当時の都市は本土とも帯状につながっていました。干潮時にその形跡を今でも見ることができます。つまり、聖典に出てくる聖都と同じ大きさなのです。

当時の警備態勢についても詳しく述べられています。外壁には特殊な封印がされていて、外敵を寄せ付けない工夫がされていたそうです。海底から発見されたその特殊な封印というのが、ヴィシュヌ神の石像でした。他にも刃や陶器などもその一部だったと思われます。マハーバーラタに出てくるような碑文が刻まれた硬貨も海底から発見されました。

最初のドワールカーの都市計画でラオ氏は次のように提案しています。

下の段に1つ、真ん中の段にもう1つ。東岸の長さ4kmに及ぶ城壁は、ほとんどが海の作用により破壊されています。下段の城壁は砂岩の塊で、上段の城壁は瓦礫。城壁の囲いの中の小石で造られた家屋や公共施設などはすべて破壊され、海の浸食で平らになっています。これらの建造物は現在は海抜マイナス7~10メートルにあり、過去3600年間に比べ現在は海面が10メートル上昇したことを示しています。

都市を建設するためにまず土地を埋め立てたことは、聖典にも記述があります。

結論

発掘された古代建造物、その他遺物、それに『ハリヴァムシャ・プラーナ』に記述がある古代聖都ドワールカーと現実の遺跡との相関関係。さらには、遺物の炭素年代測定値が紀元前3500年頃に当たることなど、多く科学者がドワールカーがもはや伝説ではなく現実の歴史だということを物語っています。

また、ドワールカー以外にも古代沿岸部の都市圏全てが水没したことも示唆されています。それら紀元前7500年頃と特定された遺物の年代測定結果は、つまり古代インド文明は9000年以上前から存続しているということの証明になります。ドワールカー自体の水没は紀元前3500年ごろでした。

伝説の都市ドワーラカーが発見される以前、ヒンドゥー叙事詩『マハーバーラタ』は一つの神話に過ぎず、古代都市の遺跡を海中で探し出すなど時間の無駄だと諦めていました。また、マハーバーラタで描かれる古代戦争は、その当時の有力者の一族の確執が戦争に誇張されたものだと考える学者もいます。しかし大事なのは、S.R.ラオ博士主導のドワーラカー発掘調査により、夢物語と思われていたものが、実際は論理と推論を使って扱われるべき実物であったということです。
クリシュナ神の治める美しい都ドワーラカーは実在したのです。


ドワールカーで起きた海面上昇は、科学的に証明されてもいます。研究により、海面の急上昇により一気に都市が水没したとされています。『ハリヴァムシャ』には、当時クリシュナが「海が街を飲み込もうとしているため、街の住民を避難させなさい」と、街を訪れていたアルジュナに指示したと書かれています。クリシュナの予言から7日後、残った最後の市民が街を去った瞬間、ドワールカーは津波に飲み込まれました。

専門家は水没の原因を3つ推測しています。一つは海底での水位の変化、二つ目は大地震、三つ目は海水面の急激な上昇。この3つのうちですと、最後の原因が最も妥当と考えられます。海底の水位の変化は、海岸でも「大地の引き裂き作用」の跡が残るはずですが、そのような形跡は見当たりません。大地震だとしたら、揺れによって構造物が崩壊していないのは不自然です。よって第三の理由が妥当ということになります。バーレーンの海岸でも同じような現象が同時期に発生していたことが知られています。ここで注目すべきは、バーレーン地域とここは当時すでに深い交易関係があったということです。

発掘の中止

さらなる歴史的発見が予想されていた本発掘は、政府の学問的無関心により現在は手詰まり状態になっています。著名な海洋考古学者S.R.ラオ博士が政府に提出した提案書は、もう何年も埃をかぶっています。

ひょっとすると、炭素年代測定により7,500年から9,000年とされた結果も、ラオ氏が約4,000年前に存在したと考えるドワールカーとは、直接の関係はないのかもしれません。しかしラオ博士の貢献により、海面が7,500年で約30メートル、3,500~3,800年で約10メートルも上昇したことは着目すべき事実です。バラプール湾の潮間帯の発掘を行えれば、さらなる古代遺物が発見される可能性があります。それにもかかわらず、政府は資金不足を理由に未だ調査を推進していません。

S.R.ラオ博士の提案

博士は3段階の遺産保護を想定していました。観光客のドワールカー水没都市を訪れる場合、シーズンであればダイビングや展望台から見学できる構想がありました。水中ビデオカメラを使って、水上のモニターに映像を映し出す計画なども。

また、この海域にはイルカが多く生息していることから、海底博物館の構想もありました。聖都ドワールカーのジオラマ再現や古美術品の展示なども企画されましたが、現在それら発掘物は倉庫に眠ったままです。

国内でのプロジェクトはラオ氏が高齢なこともあり、座礁していますが、世界中の歴史家もドワールカーにあまり関心を示さないのは、不思議なことです。初期にはユネスコの支援を受けて、外国の海洋考古学者も何人か協力を申し出ていたのですが、やはり政府がプロジェクトに無関心だったことで、外国からの協力者も遠ざかってしまったと思われます。水中発掘は政府の全面的な援助がなければできません。海中での発掘には大掛かりな機械や設備、訓練を受けた熟練のダイバーの指導なども必要です。

しかし、インド人にとって架空の物語ではなく、れっきとした真実出会ったドワールカーは、国家遺産であり、誇りの象徴です。よって、すべてのインド人はこの地と名誉を守っていくべきです。これを読んでいるすべてのインド人で、ドワールカーに対して行動を起こしていきましょう!

参考文献
ドワルカからクルシェートラへ S.R.ラオ博士 Journal of Marine Archaeology (1995-96).
水中文化遺産。A.S Gaur and K. H Vora. カレントサイエンス第86巻第9号2004年5月
水没都市ドワルカのさらなる発掘. S. R. Rao. 海洋考古学の最近の進歩
ニュース記事(ヒンドゥー、デカンヘラルド、ロイター)
http://rafalreyzer.com/the-underwater-ruins-of-dwarka/


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