丹波山、白白明け
私はもっと、書いたほうがいい。
そう思ったのは、今月訪ねた山梨の東北部に位置する丹波山村での、一人の女性との出会いがきっかけだった。
彼女は自身のこころをありのままに表現し、この世界へ慈しみをもって、常に目に映る事象と対話しながら生きていた。宝物を語るときの彼女。いつもは隠れているしっぽがブンブンと風を揺らしながら姿を現し始める。
言葉は、その人の世界であると思う。彼女と互いの世界をやりとりするなかで、彼女の大切にしているものや思想のなかに、私の大切にしたいものたちが重なっていく。共鳴し合って、心がほろほろと解けて、自分がどういうストーリーを描きたいかに心が向かうようになる。
そのなかで、次第に心を一度まっさらな状態にして愛を出し入れすることができるようになる。そんな日々は、なにもかもが愛おしさに染まりゆく空間。
彼女は言う、「愛とは、言葉を尽くそうとすること」であると。
だがしかし、自身が感受したもの、心のなかで生まれたもの、伝えたいものを表現するには言葉はあまりにも無力だと私は思う。その箱は、いくらなんでもちっぽけすぎる。でも、だからこそ、そのなかで表現しようとあがく人間の生き様、生命の灯火は美しい。その過程に、その人なりの世界の愛し方が滲み出るものだ。
私はもっと、書いたほうがいい。もっと書けるはずだ。大切にしたいものを大切にできるはずだ。好きなものたちへ腹の底から愛を伝えられるはずだ。もっと、もっと、世界のあらゆる存在に対して恋文を書けるはずだ。
言葉は無力だ。でも、私はあがいて想い至って表現してみせる。
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