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みんながそれぞれに「カッコイイ」時代。

【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】

 映画の仕事をしている友人がこんなことを言った。

「どうして”セックスと嘘とビデオテープ”みたいな映画が日本でできないんだろう、って考えるんだよね」

 たしかに、あの映画はよくできていると僕は思う。それに普通のハリウッド映画なんかに比べたら、とんでもないほどの低予算で作られたにい違いない。登場人物もセットも少ないのだ。にもかかわらず、最後まで観せてしまう。その力はなんなのだろう。

「たしかに、脚本もカメラワークも編集もすぐれているんだろうけど、問題はキャストなんじゃないかと思う」
 その友人は言った。
「演技のうまさはもちろんなんだけど、もっと別なもの、つまり役者の存在感、リアリティみたいなものが決定的に違うんだ」
「リアリティっていうのは演技力じゃないの?」
 と僕はたずねた。
「違う。なんといったらいいのか……。ほら、日本人にはこんなやつ絶対いない、みたいに思わないか、どの映画を観ても」

 友人は、うまく思うことを表現できずに、もどかしそうだったが、僕はなんとなく彼の言うことがわかるような気がした。

 もし、日本人が「セックスと嘘とビデオテープ」みたいな役を演じたとしても、その存在自体にリアリティが感じられなくなるのだろう。それは、役者の質ではなく、日本人そのものの問題なのかもしれない。

 そういえば、先日の紀子様騒動(正確には礼宮様御成婚なのだが)の時のこと。僕は、その成婚の日に、神保町に仕事があって車を運転していた。皇居前を通りかかった時、沿道にパレードを待つたくさんの人たちを目にした。

 僕は、一瞬とてつもない気味悪さを感じた。沿道を埋め尽くす人たちが、みんな同じ顔をしているのだ。

 彼らの内面をのぞいてみたいとは、絶対に思えない顔だった。失礼かもしれないが、救いようのない無個性を感じた。この中のどの人をとろうが、映画のモデルにはなりそうにない、そんな感じだった。

 同じテレビ番組を観ることで、お互い安心したり、女性週刊誌の見出しを世の中の出来事だと思い込み、ヒットチャートにのった曲ばかりを聴いて、会社に生涯の忠誠を誓ってしまう。そんな人たちに個性を求めること自体が無理なことなのだろうか。

 本当に自分の好きなことを自由にやって、心から笑ったり、時には真剣に自分のことを考える、そういう人たちが増えれば、もっと日本人はカッコよくなれるし、カッコイイ作品を作り出せるのではないかと僕は思う。

 そういうことを「カッコイイ」とくくってしまうのは乱暴かもしれない。しかし、「カッコイイ」という言葉は定義づけされない言葉だからこそ生き残っているのだと思う。その時その次代で何がカッコイイのかを見きわめることは悪いことではない。それは時代に流されることとは違う。大勢の中のひとりになってしまうことがある意味では、一番カッコ悪いのだと僕は思っている。

 東京スカパラダイスオーケストラというバンドが、この春、メジャーデビューした。”スカ”というのは”マンボ”と並んで古い時代の音楽だが、彼らの演奏を体験すれば「今どき、これほど観て聴いて興奮できる音楽はない」とさえ思ってしまう。

 まして、メンバーがそろいもそろって個性的だ。ミーハーを自称する某女性マンガ家をして「よくまあ、あれだけカッコイイ男のコたちがそろったものだわよね」と言わしめたのも納得できる。

 おそらく、メンバーそれぞれが、自分こそが一番カッコイイと思っているに違いない。しかし、その個性の突出のしかたがむしろ小気味よいのだ。

 リーダーでパーカッションをやっているASA-CHANGこと朝倉クンとはよく顔をあわせる。彼は、有名な”サッシュ”のメイクアップアーティストでもあり、KYON2のヘアメイクもやったりしている。

 とてもシャープでナイーブな印象だが、精神の自由さをしっかり身につけている人だと思う。「スカパラ」は、インディーズでは話題を集めていたが、メジャー・シーンでこれほど活躍するとは意外に思っていた人も多いはずだ。

 時代は、少しずつ変わっているのだろう。”スカ”が流行はやるということではない。自分の好きなことを自由にやっている人たちが受け入れられる、時代になってきたということだ。

 お金を持っていることや、豪勢な食事をすることは、実は豊かさなどではない。むしろ、世の中によけいな基準や観念をとりはらうこと、つまり、いろんな自由と個性が認められることこそが豊かさだと思う。

 みんながカッコよくなれるのだ、きっと。

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