【春の特別編】消えた卒業証書
今回のnoteは【春の特別編】
関口家でたまたま見つかった35年ほど前の原稿用紙。そこに書かれていたのは、何のために書かれたのか定かではない未発表の短編私小説。本人曰く「ほとんどが実際にあったことですが、フィクションも入っています」とのこと。
今回は【春の特別編】としてぴったりの卒業をテーマにしたステキな物語をお届けします。(運営スタッフ)
消えた卒業証書
きれいに「さよなら」を言うのは難しい。
寂しさよりも、それが無味乾燥に聞こえてしまうのが怖くて「さよなら」と発することを躊躇してしまう。卒業式もそれに近いものだと思っていた。
僕が生涯二度の卒業式に出席しなかったのには理由がある。
高校の卒業式は遅刻が原因だ。三年間の常習犯らしく有終の美を飾った、と言えないこともない。
慌てて式場となった講堂の入り口にたどり着いた時には、扉の隙間からすでに浪々たる来賓の祝辞らしきものが聞こえていた。そんな中を一人踏み込んでゆく義務感も度胸も持ち合わせていなかった当時の僕は再び正門を出て、向かいのパン屋でマンガを読みながら時間を潰した。クラスの連中はどうやら大学の試験と重なったせいで欠席したのだと思っていたらしい。
そんな僕だから大学の卒業式に出なかったことも、大して気にしていなかった。在学中に始めた仕事が忙しくなり出席できなかったのだ。実際、当時の僕の仕事が、卒業資格などとは無縁のものだったから、そんなことに対して無頓着だったことは確かだ。それがいけなかったのかもしれない。
5年後のことだ。
「そういえば、あなたの卒業証書って見たことないわね」
当時一緒に暮らし始めた彼女が突然言い出した。
「ほんとは卒業できなかったんじゃないの?」
冗談めかした彼女の言葉だったが、はて、と僕は言葉を返すことができなかった。卒業証書はどうしたのか、まるで記憶にない。たった2LDKの狭い部屋の中にこれ以上隠し場所はないだろうというくらい探してみたが見つからなかった。
もしかしたら実家で保管してあるのかと思って電話してみたが「そのために額縁まで用意していたのに、お前が不精して送ってこなかったんじゃないか、早く見せてくれ」と怒られる始末。
そもそも卒業証書がちゃんと存在したのか、僕は彼女と母校のキャンパスを訪れてみることにした。あいにく事務所は昼休みで、30分後にならないと開かないと知り、キャンパス内を散歩することにした。
「学生ごっこね」と浮かない顔の僕をよそ目に彼女は機嫌が良さそうだった。
「ボクたち学生に見えるかな?」
「大丈夫よ、何しろあなたは卒業していないんだから」と彼女は笑った。
学食や講堂を覗き、並木道の奥に立つ銅像の前に出た。
「この人だあれ?」
「成績が悪かったからずっと居残りしている人さ」
「あなたも銅像になりそうね」
「そうだね。エラい人は皆学校の外へ出て行くものだ」
「あら、初代学長って書いてあるわ」
彼女はいつの間にか銅像の後ろに回り込んで、低い声色でおどけて見せた。
「これ!勉強しとるか?お前はいつまで学生をやっとるんじゃ。卒業証書を持ってさっさと出てゆけ!」
銅像が指差したのは地面に落ちたプラタナスの大きな枯葉だった。
「え、これですか?」
その一枚を拾い上げ、ボクは情けなく笑うしかなかった。
長い時間待たされた割に大学の事務員の返事はそっけなかった。
「卒業された記録は残っていますから、卒業証書も渡しているはずですよ」
捜索の成果はなかったが、大学を訪れたことで、少しずつ学生の頃の記憶が蘇ってくるような気がした。
大掃除の時に出てきた大学のサークル名簿を頼りに、あの頃親しかった友達の電話番号を探してみることにした。
「コジマ、こいつだ!」
学年は2年後輩だが、世話好きでマメな性格でサークルの連中のことだったらなんでも知っている男だ。確かこいつに「卒業証書をなんとかしてくれないか」と頼んだような覚えがある。
コジマはとっくにその名簿に記載されたアパートを引き払っていた。5年も経っているのだから当たり前か、と思いながら、併記された実家の電話番号を回してみた。そういえば1〜2年前に結婚したという通知をもらったことを思い出す。案の定、コジマは結婚して地元に帰り、家業の自動車工場を継いでいた。
電話口で彼は懐かしそうに声をあげ、僕からの連絡を心から喜んでくれたようだった。
「関口さんも結婚式に招待しようと思ったんですけどね、あの頃、ほら、すごく忙しそうだったから……」と申し訳なさそうにコジマは言った。
卒業証書のことを切り出すと「今頃そんな話ですか」と彼は笑った。
「あれなら、ほら、村石さんが預かったはずですよ。同じ学部だし、同期の方がいいんじゃないかと思って……。村石さんに聞けばわかるはずです」
村石というのは同じサークルの中で、よく一緒に酒を飲んだり、麻雀をしたりした連中の一人だ。時には、飲んだ勢いでそのまま僕のアパートに泊まって行ったり、またその逆の場合もあった。
卒業して以来、会っていなかった。楽しかった思い出ばかりを保持したいために、離れていたいという気持ちを抱いてしまう友人がいるとしたら、彼がそうなのかもしれない。
相手が村石だと、突然こんな用事で連絡するのが申し訳ないような気がした。いや、むしろつまらない用事の方がいいのだと、無理やり自分に言い聞かせてダイヤルを回すことにした。
これをきっかけに会う約束をすればいいだけのことだ、と。
そんな思惑通り、電話で事足りなかった話をするために、僕たちは中目黒の喫茶店で待ち合わせることになった。
仕事帰りにそのまま来てくれた彼はスーツ姿だった。
「ごめんな、すっかりサラリーマンで」
開口一番スーツ姿の村石はそう言って笑った。
「お前が長かった髪の毛をバッサリ切って、初めて学食に現れた時ほどのショックはないさ」
僕と村石はサークルで一緒にハードロックバンドをやっていたこともあった。
「ああ、あの時か、そんなこともあったな」
村石は急に真顔になった。
「今だから笑って言えるけど、髪を切る、切らないの話じゃないぜ。どれだけいろんなことを考えたか。それまでの人生を通して占える将来なんて、きっとないんだなって思ったよ。会社ってのはひどいもんだぜ。オレが何をしたいのかってよりもオマエに何ができるのかって急に突きつけられるんだから……」
「こんなことは言いたくないけど……
好きなことを続けてるお前が羨ましいよ」
率直すぎる村石の話し方にボクは圧倒されてしまった。村石の今まで吐き出したかった気持ちが堰を切ったように流れ出しているような気がした。
「お前が見た目より大変だってことはわかってるけどな」
最後にそう言って村石はコーヒーではなくコップの水を飲み干した。
率直すぎる村石の話し方に僕は不意打ちを食らった。どこかで学生の頃のように人の話を聞きながら恥ずかしそうにニヤニヤ笑っている村石を想定していたからだ。
学生というのはもしかしたら随分曖昧な仮面なのかもしれない。そんな仮面をつけることで「自分たちは仲良くしていられる」と思っていたのだ。きっと僕もそうだったのだろう。もともと彼はこういう人間だったのかもしれない。
卒業証書の話を切り出すと、村石は心外な声をあげた。
「俺はお前のところに送ったぞ。届いてなかったのか。その前にちゃんと電話もしたはずだ」
「ごめん。何しろ、あの頃だろう。仕事が忙しかったってことしか覚えていなくて、他の記憶も曖昧で……」
村石は苦笑しながら言った。
「大変そうだったものな。俺も仕事始めて1〜2年は同じだったよ」
あれこれと思い出話や初めてお互いに知るような身の上話をして、僕らは別れた。村石は最後に言った。
「俺はのんびりとがんばるさ」
後日、探し物の行方が判明した。
なんと姉夫婦の家の押入れからボクの卒業証書が出てきたのだ。姉の帰郷に合わせて持って帰ってもらおうと思っていたようだが、ちょうどその頃、姉の出産もあって予定変更したまま埋もれてしまったというわけだ。
筒の中からは卒業証書とともに紙切れが出てきた。
それは当時の村石の字だった。
「こんな紙切れ一枚で俺たちのバカバカしい4年間は精算できない。だが、ともかく俺たちは卒業した。俺はエライが、お前もエライ。また一緒に飲もう」
気づくのが遅すぎたのかもしれない。
忘れ物は卒業証書なんかじゃなかったのだ。
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