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THE LETTER

【雑誌「CAZ」にて1989年に連載スタートした「プライベートソングズ」を原文のまま掲載します】

 友人の奥さんは夜中に手紙を書く。”趣味”で書いてるんじゃない、と本人はいうそうだが、とにかく気がつくと誰かしらに手紙を書いているらしい。書いている最中は真剣そのもの。友達が話しかけても答えてはもらえない。何度も消したり直したりしながら、ようやく書き終わると、「ああ、疲れた」と一大仕事を終えて精魂つきはてたという顔で、布団にもぐり込むのだそうだ。

 だからこそ、彼女の手紙には力があるのだ、とその友人は言う。ある時、たまたま彼女が買ってきたセンベイが、歯ごたえといい、風味といい、塩加減といい、抜群においしかったのだそうだ。それはもう涙を流さんばかりの感激だったらしい。彼女は製造元を確かめ、その感激を伝える手紙を書いた。センベイのおいしさだけで、手紙が書けるというのもすごいが、その手紙にこめられた気持ちは読み手にも十分伝わったと思われる。何週間かたって、そんな手紙を書いたのも忘れた頃、友人の家に段ボールの小包が届いた。2人で開けてみると、手紙に対するていねいな感謝の言葉とともに「我社のメインの御菓子も食べてみて下さい」と二人でも食べきれぬほどの大きなお菓子の缶が入っていたのだそうだ。

 この話をマネれば、誰でもお菓子がもらえると思うのはもちろん間違いで、これは彼女の感動が手紙を通して読み手にきっちりと伝わったという事実があったうええの結果なのだ。

 もうひとり、友人の編集者Y君もよく手紙を書く。仕事の性質上もあるのだが、会ったこともない人に対して書くことがほとんどだそうだ。つまり、彼が会ってみたい人、一緒に仕事をしてみたい人に対して書くのだ。彼の手紙の中に感じられる熱意は並大抵のものではない。かつて僕もそうやって知り合った一人だからよくわかる。その結果、彼は今まで自分の会いたい人達(すごい面々です)に会えているのだ。

 そんなふうな手紙、つまり表現された言葉は豊かな人生に対する無限な可能性をもっている。これはけっして言いすぎではない。

 言葉なんて重要じゃない、要は気持ちさ、と軽く言ってしまう人もいる。僕もずっとそう思ってきた。しかしそれは、気持ちもまたエネルギーをもった言葉なのだということをわかっていなかったのだと思う。伝えない気持ちはただのひとりよがりだ。人間の意識はつねに何かを伝えながら動いている。その何かとは生きている言葉なのではないだろうかと最近思う。
 言葉なんて、と思っていた僕は、結局のところ何と言葉を貯め込んで生きてきてしまったのだろう。さしずめ、書いてはみたものの投函していない手紙が部屋の中で山積みになっているようなものだ。

 新聞で”25年後に配達された手紙”という記事があった。出産祝いに対するお礼状が、こともあろうに25年後に届いたという話だ。お礼というには時間がたち過ぎてしまって、受け取り人さえこの世にはいなかった。その手紙は、本来伝えるべきものを失ってしまったわけだ。

 どんなに心がこもっていても、伝わらなかった言葉があるとしたら、それは悲劇以外のなにものでもない。

 僕はこれから長い手紙を書こうと思っている。それも、伝わりにくい気持ちばかりを選んでいくのかもしれない。一行読まれただけでゴミ箱へ直行する可能性もあるけれど、できれば25年たっても力を失わない手紙であってほしいと思う。音楽や小説など、作品を書くときはいつもそう願っている。さて、届くかな、と。

THE LETTER
 1967年、ボックストップスのヒット曲を、さらに1970年にジョー・コッカーが歌ってヒットさせた。「マッドドッグス&イングリッシュメン」という名アルバムの中の一曲。

関口コメント:

25年どころか書いてから30年以上過ぎてしまったこのコラム。昔埋めたタイムカプセルを掘り起こしたようなものかもしれない。読んでくださる方がいるだけでもありがたい。


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