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祖父がこの世を去った
人は、本当にいつか死ぬらしい。
半年ほど前に祖父がこの世を去った。
2022年の9月、大型の台風が接近してくる三連休の目前だった。母と私の前を蝶が飛んだ。母はその時に悟った。
病院に着いた時まだ祖父は辛うじてこの世にいたが、会話ができる状態などではなく、私たちが到着するまで繋ぎ止められていた状態だったと思う。最期、私たちが来たことに気付いてくれたのかな。
どうやら人は、本当にいつか死ぬらしい。
身体から遺体になる
そういうわけで、祖父がこの世を去ったその日は台風直撃の三連休目前。
病院は遺体を綺麗にして身だしなみ(?)も少し整えてくれるのだが、それをタクシーや自宅の車で運ぶわけにもいかないので、葬儀場の方々が遺体を引き取りにくるまでの間、病院内にある遺体を置いておく冷蔵庫のような部屋で遺体と一緒に待たせてもらえる。感覚としては閉じ込められるというのが近いのだけど。。
冷蔵庫のような分厚くて重たい扉で、そこに遺体と2人きりで置かれるのは少し怖かった。
遺体が痛まないように(噛みそう)、大きい保冷剤みたいなので冷やされる。顔を触ると冷たい。
そうやって、死をひたすら実感させられる。
その後、私たちは葬儀場に行き打ち合わせをすることになるのだが、担当の若い男性は彼の上司を終始苛々させながら私たちと打ち合わせをした。ただでさえ平常心を保っていないシチュエーションの人と打ち合わせをすることが多い仕事なのに、本当に向いてないと思う。失礼だけど、本当に向いていないと思った。それくらいひどい打ち合わせだったのだが、お葬式が終わる頃には彼の悩みや苦悩も知っている状態になっていた。
人との出会いやご縁とは、いつもなんだか不思議なものなのだ。
一世紀近く生きた私のおじいさん
おじいさんは93歳だった。
93歳の誕生日をいつもの5人で祝った七夕の日は、いつものケーキ屋さんでイチジクのタルトを母と買っていった。
祖父と祖母にケーキを見せたら、「わあ〜、イチジクだ!昔、家の庭にイチジクの木があって、子供の頃はよくそれを食べててね、…」そうなんだねー。「わあ〜!イチジクだ、懐かしい!子供の頃家の庭にイチジクの木があってね、…」といつもの通り何度も繰り返し話がクルクル回って、またケーキを開けて喜んでを繰り返し、ケーキの上のイチジクだけ食べたら「何のケーキだったっけ?」と言っていた。いつも通り、いつもの調子。それが5人での最後になってしまった。
もう93と83だからいつどうなるか分からないからね、と毎回そう話しながら母と帰っていた。
その日も多分そう話しながら帰った。でも別れは突然にやってきた。
心の準備は常にしていたつもりだった。でも、予想通りの結末ではないものだし、多かれ少なかれ後悔は残る。それでもそういう感情たちは、時間と共に、薄れていく。
一世紀近く生きた祖父、美大に受かったことを本当に喜んで親戚中に自慢した祖父。
いつもくだらないことを言って、祖母や街行く人を見ては失礼なことを言っていた祖父。
子供の頃、たくさんお絵描きを教えてくれた祖父。
93には全く見えない元気すぎた祖父。
思い出そうとすればいくらでも出てくるのだけど、バスの中で涙が出てきそうなので、想い出すのは今はこれくらいで。
出会いの数だけ呼び名がある
雲ひとつない台風一過の日、祖父を見送った。大人になって最初のお葬式だった。
これ以上ないくらいの快晴で、青い空が眩しくて、きっと同じような空を見るとこの日のことを思い出すのだろうと思った。焼いた後の骨はイメージ通りにしっかりとかたちが残っていて、壺に入りきらなかった。それくらい、綺麗なかたちの骨だった。身体が丈夫だったのも納得。
これまでにお葬式に参列したことは2回。初めてのお葬式はこの祖父の元嫁、私の祖母にあたる人のものだけどまだ小さい子供だったのでほとんど覚えていない。1シーンだけなんとなく覚えているのは、父か祖父と一緒に遅れて行って式場の椅子に座っていたこと。
2回目のは小学生の時で、近所に住んでいた同級生の女の子が習い事の帰り道に車に撥ねられたものだった。少し前までは毎朝夏休みに一緒にラジオ体操に行って外で遊んだりしていて、仲の良い友達だったのだけど、その頃はあまり会わなくなっていて、亡くなったのを知ったのは母が新聞に彼女の名前を見つけたためだった。朝からそれを聞いて、まさかねと思ったけど、そのまさかだった。涙は意外と出なかった。悲しかったはずなのだけど、周りの子たちが皆泣いていても、私は泣かなかった。自分のことをとても冷たい人間だと思ったことを覚えている。
だからお葬式でこんなに悲しくて悲しくて、泣いてばかりになるとは思っていなかった。心は、ちゃんとあった。
初めて会う親戚の人たちに会った。祖父が生きていた頃には会ったことも、名前もろくに聞いたことのない親戚たちが意外といることに驚きつつ、4人でひっそりと行うはずだったお葬式には結局10人ほどが集まった。
お通夜のときに母が皆に配ったメッセージカードに、皆それぞれお手紙や絵を書いてお葬式に集まった。メッセージを入れた封筒が祖父の前のテーブルに集まると、そこには祖父の色んな呼び名があった。おじいさん、ぢっぢ、お父さん、○○おじ、△△さん、とか色々。
あまり意識したことがなかったのだけど、私にとっての「おじいさん」は、母や叔母にとっての「お父さん」であり、祖母の「夫」であり、また別の親戚にとっては「おじさん」であった。
私の知っているおじいさんは、お城でボランティアをしていた人だけど、親戚は想い出の天ぷらそばとお蕎麦屋さんの話を懐かしそうにしていた。また別の親戚は、写真屋さんの頃の話をしていた。
私とおじいさんに関係性があったように、また別の人と祖父もそれぞれの関係性や想い出がある。
私がおじいさんと出会ったのは祖父が60を超えた後だけど、他の人はそれよりも過去の祖父を知っている。
私にとっておじいさんは生まれた時からおじいさんだったけど、どうやらそうではなかったらしい。
おじいさんも93年前に私と同じように生まれて、子供の頃もあったのだ。
そんな当たり前のことを、改めて考えていた。
生きるって、なんだろう。
1世紀近い長い年月を生きた祖父。戦争も経験したと聞く。
幸せだったのかな、なかなか良い人生だったと思えたのかな。
いつもふざけてばかりで、そういった話を全くしたことがなかった。
正直なところ私はどちらかと言うとおばあちゃんっ子で、その時が来てもあんまりたいしたことないのかもと思っていたこともあったけど、たいしたことないわけはなかった。
お別れはいつだって悲しい。家の中で色々なことが起こっていたタイミングで心の準備ができていなかったというのもある。後悔が残る年だったというのも、正直大いにある。家族の誰もが、一番年寄りだから順番から言えば祖父だと話していたのに、誰も予想していない方向性に流れは進み、全く心の準備ができていないままにお別れになった。
特に今はコロナで、もう確実に死ぬという状態になってからしか会わせてももらえなかった。
描き始める前から分かっていたけど、この記事は恐らくまとまらないし、とりとめのないものになっている。でも今の感情や感覚をどこかに残しておきたくて、文字を並べている。
生きるって、なんだろう。
最近よく考える。楽しいことばっかりじゃないし、つらいこともしんどいこともたくさんある。それでも皆生きている。経験するためなの?修行なの?
私の最低限の目標は、親より先に死なないこと。これだけは絶対に守る。あとは、どうにかなれという感じで、まだしばらく生きていこうと今のところ思っています。
命日
2023.9.17.
93歳
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