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神としての罪を死をもって贖う

『黒猫』の主人公「私」の陋屋にての独白

   ◇◇◇

私は卑怯な人間である。小説のうえでは、「酒癖という悪鬼」の所為にしてしまったが、その実、私は極めて偽善的で、幼いときから、他人によく思われようと心にもない善行、もしくは善人ぶった振る舞いを行うようにしていた。

そのお陰もあってか、私は人にも善人と思われ、動物にも慕われるようになった。若くして一緒になった妻もその一人だった。彼女は私と違い、芯から動物が好きだったが、私も動物好きな優しい人間だと信じて疑わなかった。善人を演じている自分がときに煩わしく思われたが、酒を飲むと、その煩わしさからくる苛立ちが少しは収まった。

しかし、好きでもない女が自分に親切にしてくれるのと同様の、いわば有難迷惑な煩わしさはいつまでも消えなかったし、善人を装えば装うほどにまつわりついてくる、心のどこかのわだかまりはますます私を苛立たせ、癇癪を起させずにはいなかった。

ひとは自分に懐いてくる人間には寛容だが、ひとたび牙を剥けば、その時点で事態は一変する。すなわち、子飼いの犬も家族の一員ではなく、ただの犬コロと化す。飼い主に爪を立て、牙を剥くことは許されない。

本来は好きでもないのに動物愛に満ち溢れた人物を演じていただけに、一皮剥けばその本性は剥き出しになる。生意気なやつがいれば、そいつの生皮を剥ぎ、目ン玉をくりぬいてやりたくなるのだ。

俺さまという主人に盾突くとは何事だ。妻にしても、そうだ。主の私を差し置いて、単なる獣に過ぎない猫の味方をし、それを庇うなど許されることではない。

私は神なのだ。私に逆らうものは、すべて私の敵であり、死すべき運命にあるのだ。私は私が私であることを証明するために、そして下僕があくまでも下僕でしかないように、私に逆らう者は死をもってそれを償うのだ。私は私が神であり、それを為すことによって自らの正しさを証明したのだ。

ひとびとよ、私を見よ。私は自らの犯した偽善を自らの罪として贖った。私は明日、刑に処せられるが、それは敗北の徴ではなく、神としての贖いの死なのだ。

   ◇◇◇

ぽんきちさんのお上手なお薦めに従い、老爺が柄にもない「書評」とやらを初めて手掛けてみる気になりました。

そして金もなければ歩くのも面倒な自分の横着さを発揮して、ネットで「青空」というボランティアの方々の手によって編まれた書籍のなかから、佐々木直次郎訳の『黒猫』を見つけ、さっそく読んでみました。英語版も出ているのかもしれませんが、折角なので佐々木直次郎さんの名訳で味わってみようと思いました。

そういう意味で、わたしのようなビンボー人にはほんとうにいい時代になりました。ボランティアの皆さん、ありがとうございました。




エドガー・アラン・ポー『黒猫』【本が好き!】 noelさんの書評より転載。

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