「ケアとは何か」を考えたい。――永井玲衣『水中の哲学者たち』を読んで
グループホームで介護職員として働き始めて7年目になる。その間、介護福祉士の資格を取ったり、より良い介助や支援方法を会議等で話し合ったりして、人に「介護をしています」と言えるほどの知識と経験はある程度身につけてきたつもりだ。ただ、介護に関する知識が増えていくにつれて、別種の問いが生まれ、ついには無視できないほど大きくなってしまった。その問いとは、「ケアとは何か」といういうことだ。
介護保険制度が始まってすでに20年以上経ち、介護業界で著名な経営者やホーム長たちが、独自のケアの価値観や考え方を著した書籍も増えている。読めば「たしかに!」と大いに賛同できるところもあれば、「わかるけど、実際は難しいよなぁ」と首をかしげるところもある。ついには何かの本で言及されていたメイヤロフ著『ケアの本質』を購入までしたが、本棚に並べてあるだけで読んでいない。
まるで一過性のブームだったかのように「ケアの定義」をめぐる熱は冷めていたのだが、最近参加した研修で、ケアの定義を考える機会があったこともあり、その熱は再燃し、ならばあらゆるケアの本を読み漁って、そこからケアの定義を抽出してしまおう、という(今思えば)野心に取り憑かれた。
しかし、仕切り直しとばかりに購入した小川公代著『ケアの倫理とエンパワメント』を読んで、出鼻をくじかれることになる。ケアの倫理って結局はどういうものなんだろうなぁと読み進めていたところ、
思わず「えっ」と声に出してしまっていた。そしてこの本で重要な概念として扱われていた「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何ぞやと、帚木蓬生著『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』も読んでみると、「わかる」よりも「わからない」方が大事と、もはやケアを定義づける意義と勢いを完全に失ってしまった。(ケアとネガティブ・ケイパビリティについて考えたことは、ブクログに書きました。)https://booklog.jp/users/nodoguro514/archives/1/4022630582#comment
とはいえそれは失望ではなく、日々介護職員として働きながら「ケアとは何か」を考え続けようというモチベーションになった。
そこで遅ればせながら登場するのが、永井玲衣著『水中の哲学者たち』である。他の本かAmazonか、何で知って購入したのか覚えていないが、最果タヒが帯文を書いている点と、著者が自分と同い年である点に押されたのは間違いない。それにこの本はケアについて考えるためというよりは、純粋に読みたい本として手に入れたはずなのだが、最近は小説を読んでも「ケア」と関連付けてしまうように、本書も例外ではなかった。
個人的に最も惹かれたエッセイは『存在のゆるし』で、これはこれでまた別の文章が書けそうなのだが、ここで取り上げたいのは『ずっとそうだった』で、考えすぎるとつらくなるという甘言に対する著者の言葉である。
共鳴する著名人の言葉をSNSで拾ったり、介護の現場をよく理解している著者が書いた本を読んだりして、「ケアとは何か」を自分なりに考えるのは面白い。でもきっともっと面白いのは、同じ職場で働く同僚たちと「ケアとは何か」を話し合って、一緒に考えることなのだ。たとえ自分が満足のいくケアの価値観を見出したとしても、たとえその思想を日々実践できたとしても、それが同僚に共有されていないのならば必然的に苦しくなる。
また個人的な経験に顧みれば、おそらく仕事や資格の必要に駆られないで介護やケアの勉強をする介護職員は、ごくわずかだと思われる。リーダー層が目指すべきケアの方向性へ導くことが求められるのだろうが、深い共感も思考もしていない価値観を実践することなんて無理だ。所詮は、ただ会社の理念を暗唱するだけのような、張りぼての「ケア」になる。その被害者はもちろん利用者である。
著者が「哲学対話」では、「問いの答えを教える」のではなく「一緒に考える」と言っていたように、それぞれの現場で「ケアとは何か」を考えていくべきなのだと思う。それはつまり、それぞれの現場(国、企業、事業所、ユニット)にそれぞれの答えが出てくるわけで、有名な事業所や入居待機者の多い事業所の答えが絶対的な正解というわけではない。そしてそれは揺るぎないベストの答えではなく、かりそめのベターな答えであり、「ケアとは何か」を考え続けていくことが、少なくともケアを生業とする介護職員の果たすべき職務であると考える。
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