A君との対話:柄谷理論をめぐって
「ノード連合」のサイトを立ち上げた2013年の翌年にポストした『A君との対話』では、立ち上げからの経過と課題について書いています。以来7年が経ちましたが、今回はポスト資本主義の新しい社会をめぐる柄谷行人氏の問題提起をA君と共に考えてみたいと思います。参照した氏のテキストは、『トランスクリティーク』(2001)、『世界共和国へ』(2006)、『世界史の構造』(2010)、『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(2020)です。
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A:この前の対話から7年も経っているんですが、あっという間でしたね。いろんな事がありましたが、一番はやはりアベスガ政権による日本の右傾化、正確には行政権力による上からのファシズムが進行してきたことですね。この傾向は日本だけでなく、トランプ政権下のアメリカでも同様で、今年1月に当時大統領職にあったトランプが煽った議事堂突入事件が起こりましたが、これは大統領選選挙結果を転覆しようとして未遂に終わったクーデターと言うべきものでした。アメリカでここまでのことが起こったことがショックでした。そしていずれも背景にはコロナパンデミックの拡大がありますが。
まさに。柄谷さんも資本主義国家における行政権力による議会の無力化、独裁体制への傾斜(大統領制化という言葉で表現されている)がどこでも起こりつつあると言ってるね。
A:ところで、柄谷さんについては、この前の対話の前年2013年に『柄谷行人「世界共和国へ」について』で簡略なかたちでしたが批判的に取り上げていましたよね。なぜまた検討したいと思ったんですか?
この7年間、基本的な考え方は出発にあたってのメモ『ノード連合のためのノート」の立場から変わっていない。君に言わせれば、全然進歩していないとも言うだろうが(笑)。しかしここ1年くらいは、このメモで記した「ポスト資本主義の共同体は確実に到来するとしても、それがどんなものになるかは予測できないし、またすべきものでもない」という不可知論の立場の座り心地が次第に悪くなりはじめたんだよ。
A:というと?
つまり、現在でもハイエクと同様に、人間は意識的に社会を構築することができるとする社会設計(工学)主義に対しては不可知論が妥当だと考えているんだが、しかし「資本主義の現状から判断して最低限、これだけは言える」ことがあるんじゃないか、たとえそれが欠落する部分を多く抱えるものであったとしてもやはり探求すべきじゃないかと思うようになったんだよ。多少でもものを考える者の義務として、もう一歩踏み込むべきかなと。で、その時に想起したのが柄谷さんの「アソシエーションとしてのX社会」構想で、もう一度読み返してみようと思ったわけ。前出の『柄谷行人の『世界共和国へ』について』で批判した点は今でも大きく間違っていないと思うけれど、だからどうなのという問いにはほとんど答えていないからね。それともう一つ、柄谷さんも指摘しているが、マルクス自身の共産主義観が実はプルードンの連合主義(アソシエーショニズム)の影響を強く受けたものだという主張が広がっているのを知ったことも動機かな。
A:評判になっている斎藤幸平さんも『「人新世」の資本論』で、アソシエーションの連合としての共産主義を論じていますね。
そうそう。私自身はマルクス関係の文献はしばらく読んでいなかったので分からなかったけれど、この解釈はかなり前から広がっているようだね。連合の概念がプルードンだけではなくアナキズムの理論的伝統にあったとすれば、アナキズムの視点からマルクス主義を再評価する流れということになる。
A:なるほど。でも不可知論といえば、今年になってポストされた『認識論メモ:ヴトゲンシュタインとメイヤスー』では不可知論の立場をより積極的にとらえるべきだと主張されてませんでしたか?
確かにそうなんだが、今回柄谷さんの『ニュー・アソシエーショニスト宣言』を読んでみると「資本主義のあとに来る『X社会』は意識的に作り出すというよりも向こうから到来するものだ」という表現があって、これは「資本主義の後にくる新たな共同体はあらかじめ予測することも設計することも困難で、自ずから到来するものであり、私たちの主観とは関係なく否応なく私たちを巻き込む」ということだろうし、だとすれば私たちの不可知論とほぼ重なっているんじゃないか思った。
A:つまり「これだけは言える」程度の輪郭で新しい共同体を構想することと、不可知論は必ずしも矛盾しないし、柄谷さんもそう考えているところがあり、それなら彼の「X社会」をもう一度検討する意味があるということですか?
そういうこと。しかし柄谷さんの構想する「X社会」論は、これまでのマルクス主義やアナキズムを批判するところから立てられているし、参照されている思想家も多く、それを自分なりに咀嚼していないと厳密には検討できないから、実際のところ言うは安く行うは難しだね。まとめてみようと思ってからかなり時間が経っているんだが、気が重くてなかなか筆が進まなかった。
A:なんか最初から無理っぽいと言ってるような(笑)
具体的には、マルクス主義とアナキズムがともに取り組んでいた貨幣、商品、剰余価値、資本、協同組合、国家などの基本的な概念をどう理解するかが課題になる。その前に一言すれば、マルクス自身がポスト資本主義の共同体について、エンゲルスを源流とし、ドイツ社会民主党、ロシアボルシェビキ、コミンテルンにいたるこれまでのマルク主義主流派の理解と違って、おおよその輪郭以外は資本論でも言及していないことを再確認する必要があるね。有名な『ドイツイデオロギー』の一節、「共産主義はわれわれにとって成就されるべき何らかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を共産主義と名付けている。この運動の諸条件は、今現にある前提から生じる」というところや、『フランスの内乱』の、プルードン派が主導したパリコミューンをめぐって「もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランに基づいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のもとに置き、資本制生産の宿命である普段の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、”可能なる”共産主義以外の何であろう」と言っていたことが前提になる。
A:でも、まぁそのマルクスのコメントは以前から取り上げる人もいたわけで特別目新しいことではないですよね。ちょっと角度は違うとしてもマルクスの「労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業でなければならない」を引いてレーニンの前衛党という考え方に異を唱えていたローザ・ルクセンブルグなんかもそうだし、陣地戦を重視したグラムシなんかもそう言えなくもないような。
それはそうだね。でも先ほども言ったように、たぶん1980年代に入ったあたりからだと思うが、柄谷さんもその一人と言っていい、マルクスをアナキズムの視点から捉え返そうという試みが始まっていたらしく、現在では無視できない流れになっているようなんだ。柄谷さんの言葉でいえば「アソシエーションとしての社会主義」をとらえる人たちで、斎藤幸平さんなどもこの流れに棹さしていることになる。
A:背景にはソ連崩壊、冷戦終結以降、反グローバリズムや環境保護の闘いをはじめ、目立った社会政治運動を担ってきたのが、Antifaなどのアナキストや無党派、市民団体の人たちだったことがあるんでしょうね
だと思うね。反スターリン主義を掲げてきたこれまでの左翼、たとえばネグリやハートらの「マルチチュード派」なども、これらの社会運動には積極的に関わることができなかったように見える。ざっくり言えば、マルクス主義もこれまでの通説的解釈では無力であることが明らかになったんだろうと思う。もっともアナキスト側からいえば、マルクス主義はそもそも国家的社会主義であり、それが失敗することは最初から明らかだったというかも知れない。第一インターナショナル(国際労働者協会)での「プロレタリア独裁」をめぐるマルクスとプルードンの論争はまさにこのあたりが論点だったから。
A:ウォール街占拠運動(オキュパイウォールストリート)で活動していたデービッド・グレーバーがアナキストの立場からマルクスを積極的に取り込もうとする著作を積極的に発表してきたことの影響もあるかもですね。
確かに。彼は残念ながら今年亡くなってしまったけれど、その前に貨幣の起源を論じた大部な『負債論』や、進行している資本の空洞化を暴いた『ブルシットジョブ』などは評判も高く広く読まれていて、人気の点ではたとえばネグリの『構成的権力』(1999年)などマルクス主義関係の新著などをはるかに凌駕していたと思う。グレーバーはこれまでのアナキズムの範疇には収まらない人で、イズムにはこだわらない脱領域の思想家と言えるだろうね。このあたりは2016年にポストした「高祖岩三郎『新しいアナキズムの系譜学」でも触れている。
A:で、本題にはいれば、柄谷さんを読み返されてみてどうでしたか?
あらためて柄谷さんの問題提起は幾つかの仮説から成り立っているという印象を持った。相互の関連を問わないで主なものをあげれば、第一は歴史観であって、生産様式を基礎におくこれまでのマルクス主義の歴史観(唯物史観)は無力であり、四つの交換様式を基礎に置くべきだとし、それをベースに歴史上の社会構成体を組み上げていること。第二は、それぞれの社会構成体はこの四つの交換様式の組み合わせ(アレンジメント)で成り立っていること。そして一と二に共通するが、このいわば「交換史観」の出発点には、資本主義社会における商品の剰余価値は生産過程で形成されるとしても流通過程で商品が販売(交換)されることよってはじめて実現されるという把握が置かれていること。第三は、四つの社会構成体を特徴づける交換様式を、氏族社会では「互酬(贈与と返礼)」、アジア的・古典古代的・封建的社会では「再分配(略奪と再配分)」、資本主義社会では「商品交換(貨幣と商品)」、そしてポスト資本主義社会Xでは「高次で再現される互酬制」と定義していること。第四は、上にあげた剰余価値実現の問題と関連するけれども、これまでマルクス主義もアナキズムも前提としてきた生産現場での労働者の闘いは事実上不可能になっていて、流通過程における消費者としての運動形態を取るしかないとしていること。第五は、氏族社会の互酬(贈与)システムをより高次で再現する「X社会」の骨格が自由で自主的な生産/消費協同組合であり、そうである以上、およそ自由と自主性を抑圧せざるをえない国家権力による実現は避けなければならず、従って資本主義から「X社会」への過渡期はマルクス主義のいうプロレタリア独裁によってであれ、社会民主主義による議会多数派形成によってであれ、拒否すべきだとしていること。第六に、資本主義の現段階をどうとらえるかで、ウォーラステインの説をベースに、世界資本主義におけるヘゲモニー国家の変遷によって自由主義政策と帝国主義が循環しており、現在は帝国主義にあって新自由主義はそのイデオロギーだとしていること、などになると思うけれども、これらはすべて基本的に仮説というべきものなんだよね。
A:柄谷理論のキモになるところですね。冒頭、これらを仮説と言われてますが、すべての社会理論は仮説といえなくもないので、わざわざそれを強調する意図はあるんですか?
今回再読して一番感じたのは、柄谷さんの議論の運びかたが基本的に演繹的であり、帰納的じゃないということだった。この点は「柄谷行人『世界共和国へ』について」で「結論的にいえば、柄谷の提起はやはりひとつの『大きな物語』だと言わざるをえない」と書いたときに感じていたこととつながっている。演繹的とは最初にまず議論の枠(定理、プラトン流にいえばイデア、ヘーゲル流では理念といっていい)をアプリオリに設定し、その後に、その証明のための議論を展開するかたちになっていることをさしている。たとえば柄谷理論の中心にある「交換史観」も、たとえば国家の存在理由などはマルクス主義の唯物史観では十分に解けないという例を引用して、だから「交換史観」が妥当だと結論づけているんだが、唯物史観が不十分であることは必ずしもそのまま交換史観が妥当だという論拠にはならないだろう。また「高次に互酬性が回復されたポスト資本主義社会X」は、カントの「定言命令」にもとづく「統制的理念」によって構想されるものであるとしているんだけれど、「定言命令」も「統制的理念」もいわば定理として無条件で妥当であり、かつその根拠は説明できないがそれで構わないとさえ言い放たれている。まぁ、ポストモダニズムの立場からはこれらの定理は典型的な「形而上学」ということになるよね。さらに、社会Xは最初期の社会構成体である氏族社会が「高次に回復されたものである」と説明されるが、なぜ回復なのかはそれがフロイトのいう「抑圧されたものの回帰として反復強迫だから」と断定されているだけなんだ。このフロイト理論の妥当性はまったく検討されていないし、現在の精神医学でフロイト理論は大幅に信頼度が低下していると思うけれど、そのあたりの言及もない。
A:そうすると演繹的であることがそもそも形而上学になってしまう理由という理解ですか?
ここはカントがヒュームの経験論に直面したときの話とも繋がるけれど、やっぱり物理科学と同様に、政治学や社会学、はたまた人類学であれ、社会科学も唯物的、経験主義的で帰納的であるべきだと思う。もちろん社会科学でもほぼ実証された仮説を前提に演繹することは許されるだろうし、仮説も同様だが、仮説の場合は一定の確度で実証されることが担保されていないと「物語」になりかねない。だから、あくまで唯物論の立場から帰納を基本的方法とすべきだと思う。柄谷さんは、論拠として持ち出す「交換史観」であれ、「フロイトの反復強迫論」であれ、これらは仮説であることを最初にはっきり断っておいてから議論を展開すべきだったと思う。もっとも私たちはどれだけ唯物的、帰納的であっても社会科学そのものの「科学性」には限界があるという立場だけどね。それは「不可知論」の立場に立つということなんだけど、ここでちょっと「不可知論」を補足すると、それは否定神学的ということなんだ。つまり、仮説を含む観念や概念は人間を含む世界の一部を構成しているのは確かだけれど、決して現実の総体をとらえることはできないゆえに、それを秩序づけようとする概念や観念を考えるとき、その論理に矛盾する事実を適示し「そうではない」としたり、あるいはそれが誤っている可能性を指摘して「そうではない可能性がある」というかたちで否定的に対応するスタンスで、一般に「否定神学的」と呼ばれている。デリダの脱構築の考え方がそうで(晩年は正義という観念にこだわっていたが)、観念自体に潜む亀裂、ズレを探索し、そのことによって観念の形而上学性を暴き出す方法的立場だと言えるだろう。
A:でも柄谷さん自身は、自分はあくまで唯物論にたつマルクス主義者だと自己規定されていたと思うんですけどね。
十分に読み込めていないので当て推量になってしまうけど、『トランスクリティーク』あたりで、マルクスからヘーゲル経由でカントの主張を取り込もうとした段階で「形而上学でも構わない」という立場に踏み込んだんじゃないかな。たとえばカントの「統制的理念」は、「その妥当性は証明できないが人間の人格の統一には必要だから」という理屈で擁護するわけだから。その結果、当然、反形而上学を旗印にするポストモダン哲学には否定的にならざるをえなくなるし、あげくは、大部の『世界史の構造』を書いた後でも「柄谷教」と言われたりもする(笑)。このあたりは柄谷さんの独自性ということだろうね。柄谷さんの『ニューアソシエーショニスト宣言』での自己規定に沿っていえば、カントを媒介にマルクス主義とアナーキズムを結婚させようとする立場だから。
A:じゃ、あくまで実証を欠いた仮説だけで構成されているから、柄谷理論は検討に値しないということですか?
いやそうじゃない、むしろ逆でそこが難しいところだね。仮説という前提で考えてもその中にヒントとして学ぶことは結構あるんだよ(笑)。重要なのは、一つは彼の「国家論」で、二つは「剰余価値論」、三つは「協同組合社会論」あたりだと思う。
A:あれ、それじゃむしろ学ぶことは多いというべきじゃないですか。
確かに(笑)。でもそれはあくまで柄谷さんの仮説を社会現象を読み解く一つのツールとして使うというスタンスで、仮説ではうまく説明できない現象は存在しているし、これからも出てくることを前提とした立場といことになるかな。
A:「ものは言いよう」のような感じですが(笑)
そう言われると身も蓋もなくなるけれど(笑)、それはひとまず置いておいて話を続けると、たとえば仮説としての国家論は確かに有力なツールとして使えるんだよね。社会構成体は四つの交換要素、つまり互酬制度、略奪と再配分、商品交換、高次に再現される互酬制の組み合わせで成り立っていて、かつこれらの要素はどの構成体においても同時的に存在しており、どの要素が優勢かで社会構成体の性質が決まるという仮説(この仮説が柄谷さんの独創なのか、柄谷さんも参照するウイットフォーゲルなどが既に指摘していたことなのかは分からないが)から、国家は略奪と再配分の交換要素であると定義され、他の要素とは独立しているととらえられている。国家が独立した交換要素だということになれば、たとえばこれまでのマルクス主義の通説に反して、商品交換が廃止されても消滅することなく存続することになるし、またたとえプロレタリア独裁的な権力が成立し、みずから国家だと宣言しても、それが国家である以上、「略奪と再配分の装置」であることに変わりないことになる。そう理解すればロシア革命後のいわゆる「社会主義国家」がなぜ消滅せず、全体主義国家にならざるをえなかったかを考えるヒントになるだろうし、さらに国家に対抗するためにはその胎内から「高次の互酬制システム」が作り出されていく必要があり、そのシステムが人々の自由な連合(アソシエーション)でなければならないことも展望できるようになるだろうと思う。ここのところはポスト資本主義社会の性質とその社会への移行を考える上で決定的な論点だね。
A:なるほど。でもそうなるとマルクス主義に固執している人たちは、アソシエーション論はなんとか受け入れることはできても、柄谷さんの国家論は難しそうですね。
そうそう。でもその前に、日本に限らないけれど、そもそも現在マルクス主義者(あるいはマルクス原理主義者?)と名乗る人たちがいったいどれだけいるんだろうとは思うけど(笑)。
A:国家論では「国家の廃絶」をめぐって柄谷さんの持論がありましたよね。
あったね。「国家はたとえ商品交換が消滅しても存続する」し、「他の国家が存続する限りたとえ内部で社会構成体の性質が変わっても外部に対しては国家として存続せざるをえない」という論理から、ではどういうプロセスで廃絶されるのかについては、「国連を変革し、各国が同時に主権を国連に贈与するかたちで実現する」という主張なんだけど、この廃絶論はさすがに「そうですか」としか言いようがないものだよ。柄谷さんもこれも例の「統制的理念」だから現在リアリティがなくても構わないらしい(笑)。
A:「剰余価値論」も同じですか?
最初に触れたように、柄谷さんは宇野弘蔵を下敷きに「資本主義社会における商品の剰余価値は生産過程で形成されるとしても流通過程での販売(交換)によってはじめて実現される」ということを論拠に、また別のところでは「生産過程では労働者は資本の指揮に従わざるを得ない」との判断から「これまでマルクス主義もアナキズムも前提としてきた生産現場での労働者の闘いは事実上不可能になっていて、流通過程において消費者として抵抗する形態を取るしかない」という結論を導いているので、剰余価値の形成部分は肯定できても、結論部分はマルクス主義者には受け入れ難いだろうね。
A:「柄谷行人『世界共和国へ』について」では、柄谷さんが主張する「労働者の生産点での闘いの陳腐化」という主張には反論していましたよね。
そうなんだが、昨年出版された『ニュー・アソシエーショニスト宣言』では、労働者の闘いは流通過程における消費者としての闘いが中心になるという考えに変化はないものの、「生産点でも消費者としてでもどちらでも闘いやすいところからはじめればいい」と微妙に軌道修正されている。
A:柄谷さんがいくら消費者としての闘いが中心になると言っても、日本だけでなく、世界では生産点でのストライキやサボタージュは起こっているし、アマゾンやウーバーなどでは労働組合の結成そのものが闘いになっていますから、やっぱり両方必要なんですよ。
そうだね、「生産点での労働者の闘いは無理」という主張は現実の前に破綻しているし、今さら「陳腐化しているから闘うのは無意味だ」とはさすがに言えないだろう。でもね、この誤りは「生産現場では労働者は資本の指揮に従わざるを得ない」と考えたところからきているんだと思う。というのは、そう考えるのは労働者をいっさいの自由意思を抑圧された奴隷的存在として見ているからであって、そう見るのは市場(流通過程)では自由な労働者として存在していることをその存立の条件にしている資本主義の現実に背反している。労働者を形式上あくまで労働契約によって雇用することや、労働市場の流動性は資本主義の根幹部分だからね。だから、生産現場では資本の指揮に従うといっても奴隷としてじゃない。労働組合があれば労働条件を制約することは可能だし、個人として反抗することも、どれだけ効果的かは置いても山猫的にサボタージュもストライキもできるし、実際、起こっているからね。とはいえ、この誤りがあるからといって「剰余価値は生産過程で形成されるとしても、流通過程での販売(交換)によってはじめて実現される」という柄谷さんの認識そのものが誤っているということじゃない。もっとも学説としては異論があるけどね。
A:そこにはヒントがあると?
そう。同じような主張はそれまでにもあったと思うけれども、やっぱり流通過程におけるボイコットなどの消費者運動を労働者の闘いとしてとらえたことの意義は大きいと思う。この観点に立てば、反資本主義の闘いの射程範囲がぐんと広がるからね。柄谷さんは、消費者運動、労働組合運動などはあくまで資本主義の内部での市民運動として「内在的対抗運動」とし、消費/生産協同組合など資本主義的でない経済システムを作り出す運動を「超出的対抗運動」と区別した上で、この二つは同時並行的に闘われるが、当然後者がポスト資本主義の社会Xの土台になる考えている。
A:最後にあげられていた「協同組合社会論」はどうですか?
これが、冒頭で触れた「資本主義の現状から判断して最低限、これだけは言えることがあるんじゃないか、たとえそれが欠落する部分を多く抱えるものであったとしてもやはり探求すべきじゃないか」と考えたときに頭にあったことで、次にくる社会(共同体)は「アソシエーションとしての協同組合社会」だろうと考えるようになった。この点は柄谷さんに同意できる。ただし、そうであるとしても解決すべき課題は多い。これについては「柄谷行人『世界共和国へ』について」でも触れているので、少し長くなるがここで引用しておこう。
たしかに協同組合では経営と労働の分離が存在しないし、労働者の搾取=剰余価値は生まれないであろうが、他の協同組合との交換(手段)は何であり、何を基準におこなうのか。また何を生産すべきかは市場が存在しないとすれば、いったいどういう指標で決まるのか。海外貿易の交換手段は何か。柄谷はラッサールなどの上からの、つまり国家が支援する「協同組合」は国家の強化に繋がるだけだと否定し、あくまでプルードンの主張したような「自由な連合」としての協同組合でなければならないとする。しかし、国家でなくても、社会全体の調整は必要であり、だとすれば官僚制や市場的機能は不可避だろう。
もっとも柄谷もどこかで「国家は否定しても官僚制は残る。それをどう使いこなすかが課題だ」と主張している。だがそれが「自由な連合」と両立するのかどうか疑問だし、使いこなすのが課題であるとは、現在の民主党他の野党だってそう考えているだろう。
一般的にいえば、市場競争にさらされている企業相手に一国内につまりローカルに存在する協同組合が太刀打ちできるとはとうてい思えない。また資本主義世界市場が一挙に消滅することもおよそ考えられない。
これに現時点で補足を含めてコメントするとすれば、国家権力によってすべての生産を協同組合で行うようなかたちを取らない限り(もちろんこれは避けなければならない)、長期間、自主的な協同組合と既存の営利を目的とする株式会社が並存すると考えるべきだろう。マルクスも株式会社はもっとも協同組合に近い組織だと考えたようだが、労働者が株主になることからスタートしても組織改革や企業合同や合併などのプロセスも必要だから、移行は長期に及ぶと考えるべきだろう。この問題は、究極的には労働者が自主的に事業体を管理運営する能力を身につけていくための時間と言える。そうだとすれば少なくともその期間、市場は存続することになるし、決済手段としての貨幣も流通することになる。他方で協同組合間では一定の労働時間を徴表する労働証書が貨幣の役割を果たすとすれば、結果として労働証書と貨幣が並存することになる。そうなると相互に交換(exchange)可能な仕組みが不可欠になるし、交換レートも設定しなきゃいけない。また海外との貿易では相手側が協同組合社会への移行する時間に差があるわけだから、当面貨幣を決済手段として使わざるえないだろう。でも、これらは予測であってすでに日本だけでなく海外で存在している生産/消費協同組合運動や株式会社のバイアウトなどの経験が蓄積されていかないと明らかにならないと思う。そういえば今年に入って、労働者が出資して生産する「労働者協同組合法」が成立したね。この法で本来の協同組合を実現できるのかどうかはまだ分からないが、動きとしては注目すべきだろう。ここでもう一つ補足すれば、これらの運動はすべて地域と密接に関わっているので(というより地域を抜きにありえないと言うべきだろうが)「地域自治」(地域主権と言ったほうがいいかも知れないが、これまでの用語では地域コミューンにあたる?)をどう作り上げていくかが大きな課題となると思う。協同組合社会を作り上げて行く上で地域が不可欠の要素であるとすれば、闘いの性格は、基本的にグラムシ「陣地戦」を換骨奪胎したものになると言ってもいいね。でも内外とも協同組合社会への移行に時間がかかる以上、むしろ目標としてはまず自治をめざす地域を拠点化することが鍵になる気がするね。
A:なるほど、最後は陣地戦に収斂していくということですか。ここまで、柄谷理論の中でヒントを与えてくれる三つの論点として「国家論」「剰余価値論」「協同組合社会論」を取り上げて、ヒントになる理由を話してもらったわけですが、何か補足したいことはありますか?
そうそう、仮説のところであげた第六の仮説もヒントを与えてくれるものとして追加しておきたい。第六の仮説は「資本主義の現段階をどうとらえるかで、ウォーラステインの説をベースに、世界資本主義におけるヘゲモニー国家の変遷によって自由主義政策と帝国主義が循環しており、現在は帝国主義にあって新自由主義はそのイデオロギーだとしていること」というもので、ここで帝国主義とは柄谷さんの定義によれば、ヘゲモニー国家が衰退しはじめ、それに取って代わろうとする国家が登場し、派遣を争う世界資本主義の段階であるとされる。第二次大戦後のヘゲモニー国家はアメリカで、1970年代からその衰退が進行し、現在は、中国、インドが(あるいはロシアも)アメリカと、そして相互に覇権を争っている段階だと見立てている。そのイデオロギーが国家権力と癒着した新自由主義だとされる。問題は、歴史的に帝国主義は最終的に戦争へと誘惑されるということだ。柄谷さんも戦争の危険性に言及しているが、今後、新自由主義と戦争の関係について警戒すべきだろう。
A:柄谷さんが戦争の危険性を言い出した最初の頃は、なんか唐突な感じでしたが、いちおう「ヘゲモニー国家の変遷」という視点が背景にあったんですね。
だと思う。もちろん戦争が部分的なもので終わるのかどうかは分からないし、代理戦争の形をとることもあるだろうが、やはり警戒する必要があると思う。
A:そういえば今回は、柄谷さんが呼びかけたNAMについては触れませんでしたね。
そうだった。2000年から地域通貨Qを中心にする実験的な運動で2002年には解散してしまったんだけれど、近作の『ニュー・アソシエーショニスト宣言』ではじめて柄谷さんサイドから見たNAMの顛末を知ることができたばかりなのでコメントできないんだよ。ただその顛末を読み、最近聞いた当時NAMに参加し中心で活動していた人の話から持った印象論として言えば、NAMは「アソシエーションのアソシエーション」として活動家集団と位置付けられていたものの、そもそもアソシエーションが実態として存在していない中では理念だけが先行せざるをえず、その結果空中分解したということじゃないかな。それに社会運動ではよくあることだが、柄谷さんは理論家であり、実践家ではなかったのに最後まで実践家としてもNAMを引っ張っていこうとしたことも上手くいかなかった理由だと感じた。柄谷さん自身もこれらの理由は総括しているようだし、NAMはすでに落着していると思う。
A:では今回の対話はここでいったん終わりということで。
まだヒントのすべてを整理できていないので話が散漫になってしまった感じだね。まぁ、これからも折に触れ柄谷さんの問題提起を考えていくことになると思う。次回があるかどうか分からないけどね(笑)
11.12.2021
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