河崎純(コントラバス)       &今村よしこ(ダンス)感想文


2023年 1月 21日、東北沢「OTO OTO」
 
冒頭はあくまでそっけなく、互いがそこにいることを意識しないようにしながら始まった。
河崎純のベースはわずかに弦をこすったり、一つまみ弾いただけで、「音楽」を感じさせる。そのわずかな音の中に、その後に展開される激しさ、広漠とした空間、温もり、厳しさ、時間の深さの萌芽がすでにすべて含まれている。これまで河崎自身の演奏も含めて、さまざまなベーシストを聴いてきたが、初めてベースによる音楽というものを聴いた、という気さえする。これほど圧倒的な存在感のある音楽家に、その演奏を受けてではなく、その演奏に対して真正面から対等に並び立って踊ることの、恐ろしい困難さがある。にもかかわらず、今村があえてそれに挑み続けることで、セカンドセットの終盤、あたかもベーシストがもう一人の踊り手であるような驚くべき共振関係が現出した。終演後の河崎の会心の笑顔がそのことを証立てている。
 
感動したステージについて分析的に書きたりしたくはないのだが、これまで自分が「踊り」について考えてきたことの更新を迫られる気がするので、検証してみる。
 
今村の動きは、肩でひずみを加えた円運動、股を割って重心を下げてからの、垂直な跳ね上げなどが特長で、クラシックバレエの典型的なターンなども織り込んだ、円と直線を基調としたものだ。つまり、私が今まで「踊り」についてわずからながら書いてきた「左右非対称の不定形な動き」、「胸ではなく腹からの動き」、「意識によるの統制ではなく肉体の無意識の反応」、「規律訓練ではなく雪崩れ」、「音に合わせて動いてはダメ」といった評価軸とは真逆にある。では、自分が今村のダンスを良いと感じたことの整合性はどこにあるのか。
 
もちろん、「やりたいことを、やりたいようにやる」という演者の決意があらゆるものに優先するわけで(朗読しながら踊るパートでその意図はわかりやすく言明されていたと思う)、緩慢さに依拠しておもむろに練り上げるという方向が常に正しいわけではない。そして、そもそも今村の動きは妥協やあいまいさを排した、きわめて明快で緻密なものであることは言うまでもない。「雰囲気でわかってくれ」というようなものではない。その動きは肩を中心にひねりが加えられており、見た目ほど単純ではないのだが、それが単なるトリッキーなものではなく、必然性を持っている。また鍛えあげられた足に象徴されるように、きわめてmassiveなダンスでありながら、狭い意味での身体能力というようなマッチョな誇示ではなく、表現として成り立っている。あるいは、頭でこしらえたテーマに則した動きを体へ移し替えている、というありがちな観念性を免れている。それはなぜか。
 
結論から言うと「逆もまた真なり」ということであり、アクロバティックなまでに激しく躍動的な動きは、それを見せるためというより、自らに厳しい負荷を課すことで自己の内的世界を開示するためであると考えられる。たとえば演奏者がソロを取っているようなスタティックな場面では、身体を斜めに傾がせた姿勢で、不自然な形で重心をじっとかけている。身構えるのではなく、体に圧迫を加えて抑圧することで、次に起こる解放によってエネルギーの噴出を爆発的に高めるのだ。空手家の「型」演舞をほうふつとさせるほど強じんな今村のダンスは、より「勁く」、より「捷く」、より「しなやかに」、より「精確に」、という餓(かつ)えのようでさえある。
 
面白いのは、河崎がソロを取っている間、つまりダンサーにとってインターバルにあたるような時間(もちろんステージ上での出演者としての役割は途切れなく続いているが)、今村と演奏者の表情がそっくりなこと。音楽とダンスという役割分業ではなく、同じ表現者として一人の人間同士として向かい合う意識が感じられる。
 
したがって今村にとって演奏家は伴奏(伴走)者というより、並び立ち、時には挑む対象としてあるようだ。音楽がそびえ立つ壁のように高ければ高いほど、不可能に挑むイカロスの飛翔のように、パッションは燃え上がる。自分の身体、特に顔や髪に触れる動作が頻出するが、抑制されたある種のナルシシズムとともに強い自己意識を感じさせ、また一方でブロックサインのように手指を素早く正確に伸ばしたり握ったりする手法は、チック症を思わせるほどのオブセッションと、豹の爪を思わせる攻撃的な意思がみなぎる。それらには背反する二面性が現れており、その二面は相互にせめぎ合ってさらなる跳躍へと駆り立てる。下手すれば手足の腱がバラバラになるのではないか、と思わされるほどの激しい躍動には、滅びの予感のようなものさえ伴うのだが、またそれを即座に打擲(ちょうちゃく)して、背筋を真っ直ぐに伸ばそうとする毅然とした反作用がわき上がる。
 
身体の物理的な限界性に直面してのなだれ・しなだれから、一気に反転しての屹立へ。存在と意識の果てしなく続く相克。このシジフォスの神話にも似た運動が、人間の内的な部分に働きかけるわけで、演奏もろとも観客をも巻き込みながら強度を高めていく。強く意識の統制をかけることで逆に肉体の反乱を呼び起こし、その自己破壊の衝動をもまた新たなフォームとして組織化していく。そこに一種のエロティシズム(存在論としてのエロスではなく、認識論的なものなのでエロティシズムと呼ぶべき)を感じとることもできるだろう。このダンスが単なるアクロバティックな見世物ではないゆえんである。

〈追記〉
エロティシズムの定義について以下の記述を参照した。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(酒井健 訳・筑摩書房・ちくま学芸文庫)より

※エロティシズムとは、存在が意識的に自分を揺るがす〔問いに付する〕不安定さのことである。ある意味では、存在は客観的に〔客体として〕滅んでゆく。だがこのとき主体は滅んでゆく客体と合体している。だから必要とあらば、こう言うこともできよう。すなわちエロティシズムのなかで私は私自身を滅ぼしている、と。

※※人間の生は、全体として見てみるならば、不安に陥るまで浪費を渇望している。不安に陥るまで、不安がもはや耐えられなくなる限界まで、渇望している。

※※※つまり無化への苦悩と恐怖を運命づけられている孤立した存在の条件を、心底から欲している。この条件は本当に恐ろしくて、しばしば静寂のうちに恐慌(パニック)が押し寄せて私たちに不可能という気持ちを惹き起こすのだが、しかしその一方で、この条件への吐き気〔嫌悪感〕がなかったなら、私たちは満足を得ることができないのだ。とはいえ、この浪費の運動には絶えず失意がともない、この運動が静まってくれるように願う期待が執拗に付きまとっていて、私たちの分別・判断力は、この失意と期待の影響を受けながら形成されてゆく。

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