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高円寺にある薄汚いライブハウス「M」のこと

2023年12月26日、高円寺にある「M」という狭くて薄汚いライブハウスで、店主にいきなり胸ぐらをつかまれた上に床に叩きつけられた。「うちでほかの店の話をするんじゃねえ!」「お前みたいな遊びでやってんじゃねえ、こっちは命かけてんだ!」だそうです。客が暴れるんじゃなくて店主が客を痛めつけるライブハウスってあるんですね。見るからに文系で弱っちそうな客に言いがかりをつけることは、命を懸けている証明にはならない。まあ、なめられてるこちらが悪いんだろうけど。なまじライブの企画なんかやってると、こういう目にあうようだ。そもそも他店の話を始めたのは出演者の一人で、私は話の流れにかぶせて、取材に来ていた人にその近所の店の説明をしただけなんだけど。店主がうるさいのでこちらはさっさと話を打ち切って、わびの一つも言ったんだけど、「この店は宇宙の中心なんだ! ここは世界一なんだ、他の店なんて問題じゃない! お前は全然わかってない!」などど叫んで、問答無用でつかみかかってくるのには閉口した。突き転ばされた時に、手に持っている酒をこぼさないように気を使った。

店主に突き飛ばされたときに、「M」のドキュメンタリーを撮ってるという若いアンちゃんがカメラを持ってきていたので、「なんかいい絵が撮れたかい」と聞いたがカメラを回していなかったという。こういう中途半端でわきの甘い自称「クリエイター」がこの店に集まって来るが、その程度の機転が回らないようではドキュメンタリーには向いておらず、土本典昭や足立正生ならぼんやり突っ立っていることはありえない。何せこの「M」という店の最大の売りはステージの上ではなく、場外でオーナーが何かやらかすかわめくことにあり、客の本当の目当てもそこにあることは周知のことだからだ。人々は口先とは違い心の奥底では暴力沙汰や流血を持ち望んでおり、オーナーが発散するどことなく不穏なムードは彼らを引き付けている。彼が引き起こす悶着こそが観客のお目当ての「ショウ」で、音楽なんかその口実でしかない。

突き飛ばされたときにふと頭をよぎったことだが、最近、田口史人の『二〇一二』(円盤・リクロ舎)という著書を読んでいたら、
「僕らが始めた頃のスカムと言われていたものと、吉祥寺東風から高円寺無力無善寺へ至った世代のスカムなものとは根本的に違う」
という一節に行き当たった。すなわち、
「僕らの頃のスカムな行為は、本当にカスでしかなくて(略)、本気には本気だけど、とにかく『面白いこと』がしたかっただけだった。
 けれど、二十一世紀以降のスカムなことやってる人たちはどうやらそうじゃない。これでなにか『評価されたい』『認められたい』という気持ちが根底にある」
のだそうだ。

スカムというのは、ノイズみたいだけど、音楽ではなく視覚的なパフォーマンスに力点のある、多少笑いも狙ったコントまがいの悪ふざけを指すようだ。そんな怠惰なことで「世に認められたい」などと考える若い連中がいるなんて情けないし、恥ずかしい話である。しかし「M」というのはたしかにそういう出演者が多いところだ。店主が「命を懸けてやっている」などと啖呵を切るわりに、出し物の質はおしなべて低い。一日のギグで、言葉の最低限の意味で「アーティスト」と呼べるのはせいぜいトリの一人(一組)だけで、後の出演者はそれにぶら下がって出ているだけ。ノイズもしっかり発せられないなんちゃってノイズとか、そこいらに腐るほどあるJ-POPの劣化コピーでしかない凡庸で陳腐な歌、売れない芸人未満のお寒いギャグなど、とうてい人前で披露すべき演目ではない。だが、店主は手放しで絶賛して売込みに余念がない。この「M」は客のためにある店ではない。ここは出演者のためにある店で、ライブハウスではなく一種のカラオケハウスである。

仲間内の自己満足ならともかく、それを「表現」だとか「文化」だと称するのは笑止千万で、こういうままごとみたいな店が営業として成り立っているのは、われわれのように毎日毎日、朝から晩まで汗水垂らして働いている人間からしたら、まったくもって噴飯もので、世間をなめた話だ。いくらこの「M」でも酒と称して水を売ったら犯罪になるだろうが、こと音楽に関してはそれに類したことが行われている。音楽と称してゴミを聴かせて料金を取っても、詐欺や泥棒にはあたらず、犯罪にはならない。そんなことがまかり通っているのは、圧倒的大多数の人間、つまり人口の99%にとって音楽など酒にくらべてどうでもいいものだからであり、大手の事務所に属していない「自称ミュージシャン」は職業とは認められておらず、音楽を売ることは商行為とは見なされていないゆえに、商道徳を問われることも無いからだ。

そもそも自分が「M」なる店の存在を最初に知ったのは朝日新聞の記事でだった。ようするに最初からマスメディアとの縁故で仕込みがあったから注目されたわけで、そこでやってる表現行為の中身ではなく、人が大勢集まって注目されるかもー、みたいな欲の皮で成り立っている。こういう店はアンダーグラウンドでもインディーズでもない、音楽をダシにしたアムウェイみたいなもんでしょ。「M」に集まって来る人々は、音楽や表現が好きなわけでは全くない。とっくに時代遅れの遺物となった「サブカルチャー」の端っこにしがみついて、自分もいっぱしの者になった気分になりたいだけだ。ミュージシャンまがい、芸人まがい、アイドルまがい、映画監督まがい、etc。偽物が集まって、目指すのはみみっちい「出世」。こんな場所にいかなる可能性も、存在意義もない。「誰もが15分間なら有名人になれる」とアンディ・ウォーホルは言った。「M」に「出演」する人が求めているのはそういうことで、ほかの音楽ジャンルのミュージシャンが言うところの「相互互助組合みたいなライブ」の上前をはねることで経営が成り立っている。そうやって金を集め、人を集め、権威を高めることで、オーナーの欲望は満たされる。そのサイクルをほんのわずかでも脅かすような存在は、彼の防衛本能を刺激するということだ。まともな生活感覚を持っている人なら、店舗に入って五分でそのくらいのことは勘づく。そして出ていくのだ。

この店では、機材を適当にいじくって変わった音が出れば演奏が成り立ったような錯覚をおぼえることが横行しているが、実際は「機材に遊ばれている」だけにすぎないものがほとんどだ。人間の手わざや手仕事を軽んじて、何でも自動化すればいいという世間の風潮に符合した現象で、フランク・ザッパやマイルス・デイヴィスを引き合いに出すのも馬鹿げているのだが、有名無名関わらず古今東西の真剣なミュージシャンたちがそれこそ人生をかけてやってきた音楽の冒険が、ここ「M」では侮辱され、ゴミの山に投げ込まれている。

結局、何のために音楽やってんのかって話で、音楽やってる人間だけが偉いとか、楽器のできない奴は人間扱いしなくていいとかいう、本末転倒な価値観があるんなら、楽器を捨てるべき。自分の音楽を裏切っているのは自分自身だろう。世の中を少しでも面白くしたりわくわくさせるのは骨が折れる仕事だが、世の中を不快でくそダサい場所にするのは簡単で、才能も努力も勇気もいらない、厚かましくて恥知らずで、弱者を踏みにじって喜ぶサディスティックな感性が少しあれば、誰にでもできる。本当に自分のやってることに自信や誇りを持っていれば、暴力をちらつかせて他人を恫喝するなんてことをする必要はなく、虚勢に過ぎない。理屈の通ったことを引っ込めさせ、理屈に合わないことを押し通すには、暴力や策略を用いるしかなく、そんなことは世の権力者だの政治家だの犯罪者だのが日常的にやっていることだ。

「M」のオーナーは「地獄の黙示録」のカーツ大佐のミニチュアみたいなもんで、この店は彼の歪んだナルシシズムや他者を力づくで支配したいという権力欲を満足させるために「だけ」ある。出演者や客(=信者)はオーナーの欲望を満たす条件を作り出している「養分様」だ。真に問題なのはオーナー個人の人間性だけじゃなく、それを追認し、賞賛し、経済的にも心理的にもバックアップして、つまり暴力に力を与えて後押しするシステムが、周囲の人々との共犯関係により出来上がっていること。それこそ「構造的暴力」というべきだ。取り巻きたちはいうなれば「アナーキー」の「団地のおばさん」に出てくる団地のおばさんのような人間になり下がっている。

結果的に「M」が果たしている役割は、先人たちの血のにじむような努力の産物である音楽的遺産に泥を塗り、その価値をおとしめて嘲弄し、今がんばっている他のミュージシャンの足を引っ張ることにある。「M」の仲間に入ってデタラメな演奏をたれ流していれば、「即興とかインプロとかノイズとか、Mでやってるようなアレでしょ」という偏見を助長することによって、他人の地道な努力など一瞬で台無しにできる。先進的な音楽を聴いてみたいという、ごく一握りの奇特なリスナーを、最後の一人になるまで撲滅することができるし、実際その日はもう目の前にまで来ている。何しろ「M」は高円寺の他のどのライブハウスよりも知名度が高く、スノッブなサブカル連中の注目を常に集めているからだ。

そんな「本物」になりそびれた人らの傷のなめあいみたいな内輪向けの「ショウ」の中でも、前述したごくわずかな数の「アーティスト」は、よどんだ空気に腐食されずに自分の表現の強度を保っており、その意志の強さにはたじろぐほどなのだが、だからといって場によって鍛えられているなんてことはあるわけもなく、足を引っ張られているだけ。本来なら別の場所でもっと広い聴衆を獲得でき、表現の精度を高めることができたはずなのに、「M」のような賞味期限の切れた空間で、時間と才能を不毛に浪費している。なぜならソコにいるのは聴衆ではなく、リビング・デッド(生きている死体)みたいなサブカル・ゾンビでしかないからだ。ここには本気で演奏する者はほとんどおらず、本気で耳を傾ける者はさらさらいない。本気で怒る者もいないし、本気で悲しんだり、笑ったりするやつもいない。すべてが「なあんちゃって」という「ゴッコ」の薄笑いに吸収されてしまう。卑猥なエゴイズムに歪んだオーナーの表情を見るとき、この空間にいるすべての人間の顔が、少しずつにそれに似通ってきていることに気づくのだ。

「みんな時代のせいだと 言い訳なんかするなよ
 人生の傍観者たちを 俺は 許さないだろう」
(とんねるず「情けねえ」より)

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