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脳内に駆け巡る思考を綴っては消し、綴っては消し、でも綴るのをやめられないのは、「わかってほしい」という自己開示と、「誤解されてたまるか」という自己防衛の両者が同時に作用しているせいだろうか。
はたまた、自身の世界観に他者を巻き込む拡張と、無闇に世界を開放することで自身の唯一性が失われることへの反動としての秘匿ひとく、双方の欲求のせめぎ合いなのか。


           *


矛盾を抱えた自分の醜さを嫌って、筆を置くことが増えた。口をつぐむことも増えた。
必死に何かを訴えたとしても、「モラトリアム期間によくある症例だ」と一蹴されてしまうのが嫌で、湿度の高い吐露とろは避けた。

人に頼ったり甘えたりするのが得意ではなかったから、すべてを抱え込んできた。結果、壊れた。
いつからかなまの感情を表出することができなくなり、これもまた自己防衛的反応なのだろうか、自分の思想から知識と論理だけを抽出して語ることが増えた。
文章は堅くなる。身体は強張る。神経症的言動が頻発する。

主観的感情や体験を捨象しゃしょうして、何かを話したり文章を綴ったりしていると、自分の望まないレッテルを他者に貼られることも増える。
いつからか「本当の自分はそうじゃない」と面と向かって伝えるのも面倒になって、もっとナチュラルに本来の自分を見せようと、普段の関わりの中で演技することが染み付いていった。
「本来の自分を見せるために演技する」という時点で矛盾が生じているという事実は、わかってしまうと怖いから、きっと自分自身で隠蔽いんぺいしてきたんだと思う。

けれど詭弁きべん欺瞞ぎまん、本質の隠蔽を放っておけないのは自分自身で、人生の中で、徹底的に自分を、人間のさがを見つめ直してきた自負はある。
世間の「常識」や他者の独我どくが的断定、自分の妄想、見えているものからそれらすべてのベールを引き剥がして、ただそこにある現実を、実際に何が起こっているか・・・・・・・・・・・を見つめたいという欲求から生まれたエネルギーで、少なくともこの一年は生きてきた。

世界のありのままの姿に辿り着くことで、自分が今まで歩んできた人生に解答が与えられる気がした。
バラバラになった過去という残骸に一本の線を通せるような気がした。
「なぜあの時こうだったのか。なぜ今こうなのか」二十数年という量としてはあまりにも膨大な伏線を、文字通り全回収するつもりで、今も生きている。



           *


物事には、因果がある。
今の自分に「なぜ」と問う時、その疑問の矢印は必然的に過去を指す。
すると、自分の脳に初めて様々な外界情報が刻みこまれる幼少期体験に、正面から対峙せざるを得ない。俺たちは一生、過去に脳内に生成されたニューロンネットワークの奴隷なのだろうか。
ひん曲がった実存の解決方法がタイムトラベルしかないと悟った時、押し寄せてくる絶望の味は如何なるものか。

幼い頃から、俺は他者に無条件に愛されてこなかった。
いつも何かしら条件が付いて回った。ありのままの自分を愛してもらうためには、100点満点のテスト用紙と、「品行方正」のハリボテを横に携える必要があった。99点を獲っても、残りの1点が俺の存在を否定した。
こんな俺にも「賢い」「優しい」という言葉をかけてくれる人はいて素直に嬉しい。
本当に嬉しいのだが、どこかぎこちない反応をしてしまう原因はここにある。それらが無かったら俺は何なのだという恐怖が常に付いて回っている。

だから、自分にしか分からない自分の存在意義を何かしらの言葉で・・・・・・・・周囲に伝えたかった。納得してもらうために。
ここにいていいんだと。お前が必要なんだと。

人が人に「納得」してもらうために、また「説明」するために必要なのは知識と論理だ。だからそれらを兼ね備えている「学問」に助けを求めた。
ここまで読んで下さればもう明晰めいせきだろうが、よく話題に出す哲学とか脳科学、精神医学に関しても、学問そのものに興味がある訳じゃない。実存の問題から自由になるために、藁にも縋る思いでそれらに手を出した。
これは何度言っても言い過ぎることは無いが、俺は手段として学問を利用しているに過ぎない。

知識とか論理とか声高に言うとどこか賢くて偉そうな感じだが、結局は愛の欠如から生じた自分の存在意義を取り戻す作業に過ぎない。
「愛」というものが一体何なのかということまで説明しつくしてやろうと、本気で思ったりもした。愛を憎んで、同時に愛を希求した。

本屋で本を買い、必死こいて読み、論文を当たり、ノートに思考過程を殴り書き、学者の講演会に行き、人と議論し───
それらがすべて愛の欠如によって駆動くどうされていたと思うと流石に掠かすれた笑いも出る。
結局、知識や論理は自分を救わないんだろうなって。




だが、必死に答えを求めて走り抜けたこの一年間を思い返すと、なぜか自信がみなぎる。
純粋な知識欲ではなかったかもしれない。相当捻くれていたかもしれない。
それでも確かに俺は自分のために走った。妥協せず考え抜いた。

思考の整理をするために友人や家族の力を借りた。顔も名前も分からない存在にも数えきれないほど助けられた。過去の偉人の言葉や才能に、時代を超えて救われた。
がむしゃらにだが自分なりに、一つの明確な世界観を創り上げた。その過程で得たものは、過ごした時間は、俺にとって財産以外の何物でもない。
振り返るともう存在意義なんてものはどうでもよかったんじゃないかと、苦しくても楽しかったじゃないかと、涙が込み上げる。

そして不思議なことに、助けられてばかりであった俺が人を少しでも救える瞬間も生まれてきた。
重たい内容の相談に乗っていると、「こういう話はお前にしかできない」という言葉を友人から貰う。「いつもはすっきりしないが、君と話すと腑に落ちる」という言葉を貰って飲み屋を出たこともある。
自分の語彙や言語化スキルが功を奏して、相手が抱えている感情を言葉へ変換して返すと、感激してもらえる。感謝の言葉と共に。

俺にできることはきっとまだ沢山ある。

クライマックスみたいな書きぶりになってしまったけど、俺は考えることも綴ることも、やめないつもりだ。
おそらくまだ実存の問題は数パーセントしか解決していないし、組み上げた論理の細部にほころびも見える。
生きている間に完全なる論理に到達できるほど世界は甘くない。だが同時に、完全を待つことができるほど人生は永くない。

傍に居てくれる人を、これを読んでくれている人を大切にしながら、そしてまだ見知らぬ人との関わりの中でも、
不完全でも、拙くても、その時その時で自分の内に浮かんだことを、文章を綴ることに限らず、創り上げていきたいと思う。

時には現実と虚構の間を行き来しながらも、自らの人生のさがを、人間としての性を、擦り減るほど堪能したい。


ここまで読んで下さりありがとう!!!
いつも読んで下さる方々のお陰で、長々とくだらない話を聞いて下さる方々のお陰で、今日も確かに生きていけます。


母性ノクターン

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