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【民俗学漫談】まざりあう自他の記憶

前回の漫談では、虚構の発生について、漫談しました。

人間は、いつの時か、虚構、フィクションを使うようになった。

どれほど正確に伝えようとしても、語りは必ずその状況に影響されて、虚構が混ぜ込む。と。

たとえば、ディズニーランドに行って、はじゃぎますよね。楽しかったと。

何月何日に、誰と言って、何に乗りました。と言うのは、自分の経験ですよね。データです。

日記の書き方です。

「8月31日。高橋とディズニー。」と言う書き方ですね。

このデータをもとに、他の人に語るわけですよ。情報にして。

その時に、「どういう感じで楽しかったか」

これを語る時に、全くオリジナルの語りをする人はいません。

必ず、他の人の情報をもとに自分の感情を作り上げるのです。

作るんですよ。

「ドキドキした」「わくわくした」という、擬音系。

「一生の思い出になった」「ずっと忘れない」という記憶抱きしめ系。

「おもてなしがよかった」「パレードの構成が素晴らしかった」という批評系。

それぞれあると思いますが、すべて、他人の情報を参考にしています。

私も、この間動物園に言ったんですけどね。

「どうだった?」ときかれて、

「カピバラがもふもふしてた」と答えたんですよ。

この「もふもふしてた」なんて、オリジナルの言葉じゃないですよね。

私が見たカピバラは、ハリネズミとネズミを混ぜて巨大化したような感じで、それが、疲れたような、動きたくないような寝姿を見せていました。

これでさえ、虚構が混ざっているはずです。

それなのに、より、人の興味を引き付けたいがため、もしくは片づけたいために「もふもふしてた」という言葉で済ましてしまう。

自分の記憶を「もふもふ」方面に一気にずらす、スライドさせてしまうんですね。

そもそも、カピバラ見てないんですけどね。

いなかったんですよ。いるかと思って行ったのに。

人に、「今度、動物園行って来るわ。カピバラ見たくなったし」って、言っちゃったんですよ。

予言成就ですわ。

いや、予言成就してないから、フィクションスライダー、オンですよ。

振り切ってますよ。

まざりあう自他の記憶

こうして、他人の経験と自分の経験とが融合してしまっていることもあります。

私も、最近、飲みながら話していると、「それ、この間、おれが言った話だろ」という事がちょくちょくあります。

今も、机から、真珠くらいの丸い球が落ちてきました。何でしょうか。

いや、記憶の錯誤の話をしているんじゃなくて、主体を変えてみよう! という事を言いたかったんです。

普段、自分が主体ですよね。普段じゃなくても自分が主体ですよ。自分があって、対象と、相手ですよね。対象とどうかかわるか。

(自分から)行って、(対象から)来い。ですよね。

自分がまず動く。と。

ところで、「人の気持ちも考えなさい」というフレーズがありますよね。

フレーズでしゃべる系の人がよく使う。

「人の身になってみなさい」というフレーズもあります。

なれっこないんですよ。

なれっこないんですが、人の脳は、人の行動の理由を想像してしまう癖があります。

これは太古からの癖です。

あの人の身になって考えるというのは難しいんですが、「あの人はどうしてこういう行動をするのだろう」というのは、日常的にやっています。

それさえ、わかりっこないんですが、癖ですから、抜けません。やめられません。

「普通ならこうするはずなのに、あの人はどうしてああ言う事をするのだろう」と言う疑問。

「普通なら」の「普通」は、自分の事です。主体ですから。

で、客体・対象・相手の状況に自分がなったらば、どういう行動をとるのか、とういう感情が芽生えるのか。

それがシミュレーションですね。もしくはロールプレイですね。

かのように

そこで、自分が経験したんじゃない、全く他人の経験したことだけども、さも、自分が経験したかのように語ってみることもある。と。

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