【民俗学漫談】ファッション
人間が服を着る理由
『人間はなぜ服を着るのか』という話は、服飾系の学校に行けば最初に教えられる話かと思います。
まず、寒さや日差しを防ぐため。けが予防も含めて、身を守るためですね。
次に羞恥心から。裸族以外は、これもあります。
さらに、飾り立てるため。これがいわゆるファッションでしょうか。必要というより、欲しいからということになりますか。
これ以外にも、『曖昧にしか感じられない自分のイメージ、像を、身体感覚を通して感じるため』、つまりは、将来、技術が進歩して、全く着ていることを感じない、そういう服ができたとして、それを着て人は落ち着けるのか、という話もあります。
しかし、まあ、基本は最初の三つですよ。
順番的にもその順番でしょうか。
寒さから身を守るために発生した服
服というものは寒さから身を守るため発生した。
これはいつ頃でしょか。
服というものは、布や動物の皮でできています。
衣服の起源は皮でしょうが、これが化石のように残らないし、人類が絵を描く以前は記録されないから、わからないのですが、実は、シラミの遺伝子の研究から推測されています。
人類に寄生するシラミは毛髪に寄生するアタマジラミと、主に衣服に寄宿するコロモジラミとがありますが、この二種が分化したのが約七万年前らしいんですよ。
つまり、衣服の誕生は7万年前なのではないかと。
七万年前、人類に何が起きたのでしょか。
気分の問題ではないのです。
今から約七万五千年前から七万年前、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が大噴火をしました。この噴火は、人類が発生して以来、現在に至るまで最大のものでして、噴出した大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温が平均で5度も下がったものでありました。この寒冷化はその後6千年間続き、その後も地球は断続的に氷河期を繰り返し、最終氷期へと突入することになったのです。
この地球規模の寒冷化を生き抜くために、人類は、おそらく毛皮から衣服を仕立てる技術を発明したのだと思われます。
この劇的変化によって人類は、一度一万人程度にまで人口が減るのですが、生き残れたのは、この衣服を集め意志、使用できたグループに限られたのではないでしょうか。
すでに石器は使用していましたから、ナイフのようなものはありましたし、動物の骨から針のようなものも作ることもあったのではないでしょうか。
実際、この大噴火によって、現生人類以外の原人や旧人はネアンデルタール人を除いて滅びてしまったのです。
南米の先端にフエゴ諸島とも呼ばれる場所があるのですが、このあたりにかつて暮らしていた民族の一つがいわゆる裸族でしたが、このあたりは南極に近いわけですから、寒いんですよ。日本より寒いわけです。
そこで暮らしていた民族は、寒さを防ぐために、だいたいしゃがんでいたそうです。
しゃがんでいると、体の表面積が小さくなって、冷えにくくなりますから。
その後、ヨーロッパ人のもたらした衣服を着るようになったらしいですが。
服を着ると、寒さをしのげます。
そうすると、食べる量も減らすことができますから、生存が楽になるわけです。
食べ物を食べると代謝で温まりますね。
寒さをしのぐために食べるとなると、かなりの分量を食べなくてはならなくなりますから。
楽になるわけです。
服の効用は、エネルギーの節約もあるわけです。
服以前にファッションがあったかもしれない
衣服の起源は寒冷化をしのぐためのものであったかもしれません。
しかし、ファッションの意味はそれだけではありませんね。
ところで、20世紀の初めあたりまでは、まだ、世界に様々な民族がそれぞれの文化を保って暮らしていました。
人類学者が、その未開文化の暮らしを記録したわけですが、信仰儀礼をはじめ、日常も見てきたわけです。
衣食住を見て、何を食べているのか、どんな家に住んでいるのか、どのような服を着ているのかを見るわけです。
服についてですが、まあ、裸族が多いわけですよ。
温かいところ、常夏で暮らしていますから。
服の機能の一番目があまり必要がない。
二番目の羞恥心もそもそも生まれた時から皆裸なわけですから、感じない。
まあ、裸といっても、下にスカート的なものをつけていたりしますが。
そうして、三番目の飾るという行為になるわけです。
ま、これは宗教儀礼のための場合もありますが、日常です。
裸族といっても、何もつけていないわけではありません。
何かしらつけているわけです。
腰蓑とか、もっと簡単なもので隠すだけとか。
しかし、中には服と呼べるようなものを身に着けていない人々もいたようです。丸裸です。
しかし、何も身に着けていないといっても、全くの自然ではありません。それなりに技術もあります。
で、そうした人々が何を身に着けているのがといえば、アクセサリーなんですよ。
貝や石などで拵えた首飾りやブレスレット、後は指輪あたりがあります。
簡単になると植物から作った紐を腰に巻いている。
もっともシンプルなものはベルトのように一本のひもを腰に巻いているだけです。
もう少し、しゃれてくると、腰に巻いた紐から何本か、紐を垂らすようなものもあります。
スカートもズボンもはいていないわけですから、機能としてのベルトではなく、飾り、アクセサリーとしてのベルトなんです。
腰に紐を巻く。ベルトですよ。
しかし、何もはいていないから、今のベルトのような意味はない。全き飾りです。
飾りとしての腰紐なわけです。
肝心なところは何も隠していない。前も後ろも丸出しです。
これは、かなり手の込んだ、貝や石でできているアクセサリー、ネックレスや腕輪をしている場合でも、下は何も身に着けていない。
一部を隠すことさえしていない。
アクセサリーをつくる技術があっても、服まで行かない。
さらに、まるきりの裸族でも、道具はあるんですよ。
籠なども植物の川で編んだものを拵えているんですよ。
そう、すでに『編む』という技術がありながら、まず道具であり、次に飾りなんですよ。
ベルトらしきものにしても、ベルトの必要があって、せっかくだから、少しは飾りつけをしようと言う感覚ではなく、初めから飾りつけなんですよ。
ただの裸体じゃなんなんだから、少し飾ろうかという感覚です。
暑いとか寒いとか、まして恥ずかしいとかそういう感覚はないんですよ。
ここで、驚くわけですよ。
人間が服を着ることは、身を守るためとか、羞恥心のため、つまりは心身を守るためであったはずなのに、どうも原始的な生活をしていた人々を見たら、そうではなくて、飾りが第一に来ている。
服を着る前にアクセサリーを身に着けたんですよ、人類は。と、推測できます。
その腰にぶら下げた紐、シャトレーヌ的なものがやがてスカートになったり、首飾りがエプロン的なものになったりで、発展したのではないかということが考えられる。
て、ことはですよ。
人間は暑さ寒さを防ぐとかそういう機能的なことよりも、飾りを先に始めたんですよ。
機能じゃないんですよ、人間は。機能的に、または合理的に動くということがそもそも人間らしくはない。
実用から飾りになる。ベルトでも着物の帯、さらに帯留などもそう考えられますし、実際そうだったと思いますが、どうも、もともとは飾りから始まったのではないか。
ホモサピエンスになって、知能を持ち、少し余裕ができたら、身を飾り始めた。
なんと、これこそファッションといわず、何と言いましょうか。
ファッションは、近代からものではなく、人間にもともと備わっていた原始的な感覚なんですよ。
正確に言えば、これはファッションではなく、呪術的なものなのでしょうが。
しかし、それは後の人類学者が言っているだけで、実は当人たちにとって、今のファッションとほとんど変わらないノリで飾っていることだってあるかもしれません。
というか、そういう気がします。
それに、今のファッション、化粧を始めとした身を飾る行為にしても、どこかしら不安なものから生じる行為でしょう。
それが、超自然か、人間かという違いなだけで。
そう、ファッションは不安から生じるものなのです。
外界からの何かを防ぐ。紐一本で結界としたわけです。
こういう飾りは、美化というより、悪霊を寄せ付けないためのものとして行われました。
服を着るようになってからも、隙間には飾りをつける。
民族衣装を見ればわかりますが、胸元や袖に模様が入っているものが多いですね。
アクセサリーももとは悪霊除けの呪符なわけです。
一本の紐が自分を区切る。
自分の身体を区切る。
外界と自分の体を区切る。
人間のエロティシズムは、アクセサリーを身に着け、服を着ることから始まった気がします。
常に、自分の肌の表面が刺激されますから。
エロティックな気持ちの発端ですよ。
寒さを防ぐといえば、北極圏に住んでいた人ははじめほとんど裸で暮らしていたそうです。
そこにヨーロッパ人が服を着て現れて、はじめて『なんか寒いな』と思ったというのは昔の漫才のネタですが、服を着ると、寒さを防ぐため、食う量を減らせるわけです。食べると暑くなりますよね。それで着るようになったらしいです。食う量を減らせるということは、狩りも楽になるということです。
と、いうわけでして、人類学から見れば、服の機能の第一に来るのは身を飾り立てるためとなるわけです。
今、大量消費やファッション業界の商売のやる方に対する反発などで、ほとんどデザイン性のない、色もないような服が着やすいと評判になることがありますが、それはそれで確かにデザインでしょうし、ファッションでしょうが、それだけではまず、堪えられないと思いますよ。
服飾を学ぶということは、人類の根源的なものに触れようとしているわけですよ。
ま、自らの体を彩るという行為は、アクセサリーにしろ、より直接に肌を彩る、化粧ですね、これは天然自然のままで、日常を過ごすということが、なんだか不安になってきたらからといえます。
これは、羞恥心というよりも、むしろ天然自然のままでいたら、なにか、今一つの計り知れない力をよけにくいと考えていたからではないでしょうか。
たとえば、邪視を防ぐためのアクセサリーや化粧がそれにあたります。
かつては、この世とあの世の境が曖昧で、もちろん、あの世なんて言う認識もなかったわけですが、でも、何かしら、ふだんとは違う、自分たちの知らぬ世界の力のようなものは感じていた。
その力にさらされるのを防ぐという感覚が芽生えたような気もします。
また、日常でそれですから、祭となれば、素のままで聖地でも儀式でも執り行うわけにはいかなくなるます。
現代人は、そのままの自分では自分を示せないと感じるからおしゃれをする。
自分の扱いに対する不満から自分を飾り立てようとするわけです。
未開人にとっては、むしろ不安から。
そのままの自分で世界に存在しているのがなんだか恐ろしい。
自分というよりも、人間がそのままの姿でいることに不安を感じる。
この世とは別の強力な力にさらさられるのではないか。
ということで、日常的に化粧をし、アクセサリーを身に着ける。
祭や通過儀礼などでこの世とあの世の境の時空に近づくようなときは、なおさら飾る。
全身を白、または黒、その他の色で塗りたくったり、日常とは異なった色彩の服を着る。
祭の服
祭を行う段階では、もうこの世とあの世の区別はつき始めています。
祭には日常とは違う服を着るわけです。
祭はこの世とあの世の境を曖昧にしてしまいますから、時空間的に。
日常と同じ服を着るわけにはいかないのですよ。
コントロールできなくなりますから。
普段のものを全く持ち合わせずに、曖昧な時空に立たないと、その後の日常に立ち戻ったときに、『あれ?』となります。
そこで、祭は、特別な服を着る。
宗教者でさえ、特別な潔斎をし、服装も普段の儀礼とはまた一段違ったものを着るわけです。
宗教者が職業化される前は、儀式の中心となる人物はとにかく着飾りました。派手な衣装、派手な鳥の羽をつけて、異様な姿になるわけです。
共同体の人々にとっても同様で、ふだんは着ないような民族衣装を着ける。
普段から民族衣装を着ていた時代でも、やはり祭りの日の衣装は労働着とは違いますから、特別な刺繍や縫製で手間暇かけて作られたものを着ました。
民族衣装と呼べるようなものがない時代、または、20世紀初頭くらいまで残っていた独自の文化を保っていた比較的少数の民族の場合は、羽飾りや化粧を施したものです。
化粧はそもそも祭用ですし、昔々はむしろ男がその権威や敵に対する威圧のためにしていました。敵は獲物の時もありました。狩りの時に化粧をするわけです。
庶民の女性が本格的に化粧をし始めたのは、コスメ産業の成立もありますが、戦時中から、戦後、女性が町に出るようになったためともいわれています。
それまでずっと家に中にいたころと違い、昼間の日の下にさらされますからね。化粧をするわけですよ。
で、参加者は別ですが、宗教者は祭りに使用した服はその時限りで捨てていました。道具も。
一瞬でもあの世の空気にさらさられたようなものですから。豊穣の力を呼び込むために。
そんなもの、日常、恐ろしくてその辺の箪笥にしまっておけないんですよ。
あの世の魂、気みたいなものが付着したわけですから。
そもそも服というものは、その人の気のようなものが宿ります。
洗っても取れません。
ですから、昔、江戸時代には古い着物をリサイクルする場合は、全ての縫い目を解いてから、作り直していました。
気は、縫い目に宿ると考えられていたんですね。籠ったものをほどいてしまえば解き放たれるわけですよ。
均質化された世界でのファッションデザイン
均質化は価値観の均質化であって、まったく平等化と言うわけではありません。むしろ同じ価値観を持つ人が増えるわけですから、その分、不平等が広まります。価値観を同じにしてしまえば、批判もしづらくなりますからね。
事情を顧みずに、『努力すればいいじゃん』で済まされてしまうのが価値観の均質化ですよ。
貴婦人の服を仕立てていたオートクチュールの時代、中流階級が発達したプレタポルテの時代、さらに中流層が増えて、プレタポルテと区別して、レディメイドの時代、それぞれ、貴婦人の暮らし、ブルジョワの暮らし、それは貴婦人のまねごとなのですが、さらに労働者としての服装、という具合に、デザインの目的がはっきりと、その時代で変化したわけですから、先見の明があるデザイナーとかその前のクチュールとかは、それに合わせてファッションデザインを考えだしていたわけです。
日本のように西洋化というそれまでの文化を変えてしまった場合は、また一段階あります。
ところが、今や皆が大衆化といいますか、消費者となり、価値観を共有してしまった。
いわゆる富裕層も同じですよ。高いか安いかの差があるだけで、庶民と同じものを食い、着ているわけです。
かつてのブルジョワは、貴族のまねをしたかったものの、しょせんはまねごとです。かつての鹿鳴館を馬鹿にできません。その辺、モリエールの劇作によく戯画化されています。
それで、しょうがないから、ブルジョワはものすごく高いものを身に着けるようになった。
『おれは庶民とは違うぞ!』と言い聞かせるために、庶民が手の出ないものを作らせ、買うわけです。
ま、これも今の富裕層と似ていますね。
しかし、価値観は庶民なんですよ。
かつても貴族と庶民の間に完全に理解できない価値観の相違があったわけです。
それが闘争などで取り払われた。
そうして、価値観が均質化した世の中では、デザイナーは新たなものを作り出すのが難しくなる。全く違う新しいものをその時代の力を得て、作り出しようがないわけで、時代というものが新しいものを作るように後押ししてくれず、自分の頭でひねり出すように作るしかないわけですから。もしくは絵画やファッション自身の歴史、もう少ないかもしれませんが、民族衣装からヒントを得て。
機能というより、ネタになります。
それはデザインというより、エディティングですね。個人的には、そもそもクリエイトはすべてエディティングだと思っていますが。
もし需要のない服を作ったとしても、それは、ファッションではなく、現代アートです。
飾るか、自分で着るかしかありませんが、まあ、着る度胸はないでしょうから、それは飾って、自分は世の中の陳列棚にある服を買うわけです。
それはファッションショーを見ればわかります。
今のファッションショーで、どうも突飛な服を着てモデルが歩いている場合がありますね。昔、マヌカンに着せて、そこから仕立てていたオートクチュールの時代と違い、あれはコンセプトを発表しているのであって、そのまま着るわけではありませんが、って、着る場合もありますが、それはあくまで有名人に着せての撮影用や営業用でして、あれをそのまま作った当人が着たら、それはアーティストです。それを着て街中に出ればそれはアクティビスト系のアーティストです。
まあ、本当のところで、服や布地を大切に考えているのか、自己表現にすぎないのか。
これはグラフィックデザインでも写真でも同じです。
日曜日のお出掛け服
19世紀に、生産技術生地作りや縫製技術の進歩で大量生産が可能となりまして、労働者にも服が買えるようなった。
ただ、家賃と食費で手いっぱいだったために、できるだけ安い服を求めるようになった。
『安いに越したことはない』
これ、21世紀に入ったころ、よく聞いたセリフですよね。
19世紀くらいですかね、正確にわかりませんが、都市労働者というものができてしまった。
いわゆる職人ではありません。労働力として資本家から考えられていたカテゴリーのことです。
都市労働者はただ働くだけです。
資本家は合理的に考えますから。労働者のことなど考えていません。
今も昔もです。
今の資本家、経営者が昔の資本家に比べたらよほど労働者のことを考えているように見えますが、比較対象がおかしいのです。
近代と中世を比べるようなものです。
単に、行政の指示や、時代的に最低限のことをしているだけで、相も変わらず、『ライオンだって腹がいっぱいになったら獲物をとらない』というレベルにさえ達していないわけですよ。
それで、都市労働者ですが、もうすっかりそのころには祝祭というものがなくなった。農村から離れ、都市に住んでいるものの、『市民』として扱われていませんから。
そこで祭用の服がなくなる。必要なくなるから。
その代わりに出てきたのが、日曜日の服です。お出かけ用ですね。
今は多くの労働者が週休二日制ですが、少し前までは、一週間に休みは一度でした。うちなど魚屋でしたからね。毎週木曜日だけが休みでしたよ。
だから、家族で出かけるなんて、盆暮れ正月とゴールデンウイークくらいですか。うちの場合、魚屋でしたから、暮れは大晦日まで忙しい、正月はそもそも少し前まで、初詣以外は、家族で出かけるような日ではありませんでしたから。百貨店の初売りが四日で、それは魚屋にとっても初売りでしたし。
後、出かけるとしても、日曜の夜くらいに、近くのファミレス、その頃、すかいらーくができたので連れて行ってもらいました。
今、伊藤園の本社がある場所です。
というわけで、私は、お出かけ用の服などあまり持っていなかったのですが、普通はある。
庶民に対して、お出かけ用の服を売ったのが、当時の百貨店であったのです。新宿であれば伊勢丹ですね。当時の新宿は三越、西口の京王、小田急はその他扱いでしたから。
そうして、日曜に出かける。
ところが、日曜というものは、かつての祝祭とは違うんですよ。
毎週来ますから、蕩尽、馬鹿騒ぎするわけではない。
むしろ休む日なんですよ。
どうしてか。
労働者なわけですから、雇う側にとっては、100パーセントの力で労働してもらいたい。産業革命時代のように働かせ続けては、労働力が落ちてしまうことを知った資本家は、労働者を休ませることを知ったわけです。
学習したわけですね。労働再生産ですよ。
労働者の健康を考えたわけですよ。生きていますからね。
そのためには休ませる。それが日曜であったわけですから、その日曜日に、何かないかと駅前にふらふらと出かけたところで、自分たちが労働者に過ぎないことを自覚させられるだけの日曜日を過ごすという、なんともやるせない気分になるんですよ。子供以外。
それでも死ぬのは怖いですからね、また月曜から労働するわけですよ。
そうして、労働者が日曜日に出かける。せっかくだからと少しおしゃれする。その服さえ、ブルジョワのコピーなわけです。
ところが、服はコピーできても、経済力もたかが一日解放されたところで得られる知識もコピーできないわけですから、なんだか、よくわからないまま帰ってくる。
『出かけた!』、『おれは出かけたぞ!』、『上等の服を着て、レストランに入って、料理を持ってこさせたぞ!』と自分に言い聞かせるわけです。
それこそ、出かけるための服、今のネタでいえば『服を買いに行くための服』を買いに伊勢丹に行くわけです。
ふだんの労働者の服で行くのは何だから、特別な服を着ないと、と思うわけですが、伝統から切り離された都市労働者が伝統的な衣装を着なくなる、つまりは自分の出所がわからなくなる。そうしてふらふらと百貨店の大食堂に吸い込まれていったわけです。
かつては、共同体から得ていたアイデンティティーなど消えてしまった果ての姿です。
少し前に、何というか、アジアやアフリカの人々がTシャツにジーンズという格好が広まっているのを『植民地化のなれの果て』として言われていましたが、何のことはない。
欧米各国、日本だって、自分たちの同朋に対して、さほど変わらぬことをしてきたわけです。
どこかに突破口はないんでしょうか。
これ、今もバラエティ豊かになっただけで、根本は変わっていませんよね。
頭のいい人たちに何とかしてもらいましょうか。
コスプレ
年中儀礼は残るというより、無理やり掘り返して、むしろ一昔前より増えていますが、祭はない。儀式や縁日の名残は残っていても、そこからは伝統、つまり共同体における意味がはぎとられ、カジュアルに体験し、個人的な記録にするためのものでしかなくなっています。だから、必ず写真を撮る。
そもそもが祭がないから、祭用の服など、あったところで、ファッションでしかない。下手をすればコスプレですか、という話になる。
コスプレは祭りがなくなった世界での、反発のようなものですよ。
フィクションの世界の人物の服装を持ってくる。
フィクションの世界の人物の服装はファッションではありません。
そのキャラ特有の意味を持った、性格や持っている技に関連したデザインになっています。
そのフィクションの世界の人物の服装をリアルに持ってくるというものは、かつてのカーニバルにおいて、伝説上の人物に扮すること、さらには、本来の祭りにおいて、神をこの世界に呼んでくる、もしくは来訪神の力によって豊穣の力をもたらせてもらう。
あの世とこの世の境を曖昧にした時間や空間、そうした時空を暦や場所で作り出して、あの世のパワーをこの世に持ってこようとする。
それが祭りですが、コスプレというものは、フィクションの世界の人物の服装をするということは、あれ、巫女なわけですよ。
自分に神を降ろす巫女と同じく、フィクションの世界の力のある人物をこの世に呼び寄せて、共同体ならぬ自らを変えようとしているわけです。
セカイ系ですよ。わからないですけど。セカイ系というのはライトノベルの一時期主流になったジャンルで、青少年の日常を描いているが、その日常の生活が世界の危機と直結しているわけです。
近代の貴婦人がつけた仮面の効能と同一ではないわけですよ。
あれは、見られる性を隠すことでより白さ、つまり当時の価値観での美しさを際立だせ、女性の方を見る側、選ぶ側にしてしまう装置ですから。
まあ、コスプレもそういう頭がないわけではないでしょうが。
ティーンの女子のモードは、大人の女性をまねるのではなく、対立する形で現れます。
まねできないだろうという、デザイン、素材の服を着るのです。精神的にも、特に体型的にも。
もし、まねをしたところで、コスプレになります。むしろ宴会芸です。
これは言葉も同じですね。
若者は、若者にしかわからず、こんな言葉、大人は使わないだろうという言葉を編み出して使うわけです。
ところが、言葉の方は、大人たちがあっさりとまねしてしまうわけです。
言葉なら、若者のまねができると、若さに価値を置いている大人がまねをする。
これ、若者から見たら気味が悪いでしょうね。
それで、より精神が老けることも知らずにやっているんでしょうが。
仮面
18世紀ベネツィアの貴婦人の黒い仮面は祝祭空間でかぶるものでした。
夜、つけるわけですよ、仮面舞踏会で。マスカレードですよ。
仮面舞踏会はお互いに顔を隠すことで、いわば無礼講となる。好き勝手ができるということで、主に男女間でその、いろいろと起きるわけです。
仮面をつけたくらいで誰だかわからなくなるわけないじゃないか、と思いますが、当時は、今のように頻繁に日々、出会っていたわけではありませんし、夫人の黒いマスクなどは内側におしゃぶりのように出た部分がありまして、それを口ではさんで固定していたわけでして、それがまた声色を変えることにもなったわけです。
仮面は18世紀のヴェネツィアが有名ですが、16~18世紀のフランスにもありまして、それは、外出時の防寒や日焼け防止でもあったわけです。
それだけなら、今の日傘と同じ、全くの実用的なものですが、貴婦人が仮面をつけると、そこに想像力が掻き立てられ、仮面をつけなおすしぐさもまた蠱惑的なものでした。今、せめてエレガントに日傘をさしている人はほとんどいませんね。撮影時くらいですか。
ただ、この仮面に宗教的意味はない。ただの実用品です。
祭の時のマスクの意味はこれと逆です。
宗教的仮面は、自分を隠したり、魅力的に見せるのではなく、全く別の存在になるためにかぶるものです。
それは多く、超自然的なものになるためでした。
簡単なものでは、今でも節分の時に着ける鬼のお面ですね。
あれ、お面をつけることで別の存在になっているから、豆をぶつけるのであって、面をつけない素の本人の時に豆をぶつけてはいけません。
そうして、別の存在、超自然なものに変化して、共同体の秩序を一度撹乱し、カオスの中からエネルギーをもたらし、再び新たな秩序を作り出すために共同体に現れるわけです。
それで、仮面も衣装も異様なものにする。
18世紀の貴族のファッションを見る限り、今から見れば異様かもしれませんが、あれはまだ人間なわけです。
今から見ればということであれば、80年代から90年代初めのファッションも異様ですが、あれも別に超自然になろうとしているわけではなく、その人の個人的な都合で来ているわけです。
あくまでその本人なんです。いかほど異様な格好をしていても。
それで、大人は混乱するわけです。
祝祭でもないのに、日常の意味から外れた格好をしていることに解釈を与えきれないんですよね。
意味なんてありませんから、解釈できるわけないんですが。
まさか、意味のない行為をしているとは思いませんから。
ていうか、人間はどうも無意味に堪えられない。
人生でさえ、じやあ、これがすべて偶然なのか、では、頭が片付かないわけですよ。
それで運命ですとか、超越的なものですとか、縁起担ぎをするわけです。
成人式で、異様ないでたちをする。
かつての傾奇者のように、わざと、コードから外れたものを持ち出す。
あれは、参加者にとっては、祭なわけですよ。祝祭です。
主催者が混乱するのは、主催者は通過儀礼のイベント、神社における祭りではなく、七五三だと考えているわけです。
神社の祭りの縁日と七五三、景色も違えば、参加者の格好も違う、つまり、全く違うイベントなんですよ。
一方は、蕩尽の軽くなった現代版、だから普段の頭なら買わないようなものを買いますね、もう一方は共同体に入るための厳かな儀式なわけです。
七五三の時に射的をやりますか。やりませんよね。だから店も出ない。
普通、焼きそばも買わないでしょう。
儀式の後は、それなりのお店に行って『お食事』をするわけです。皆で一堂に会して。
成人式においては、連れてゆく親もいなければ、何より宗教者もいませんから、参加者にとってはカーニバルなわけです。
厳かな秩序への参加儀式に対して、カーニバルで来るわけですから、そこでの異装は何ももたらしません。憂さ晴らしなわけですから、混乱するだけです。
ほんまもんの儀礼においての異装、呪術師やシャーマンの異装は、あれ、日常性を離れた防御のかたちなわけです。
危ないですからね、ふだんのまま、別世界のものと交信するわけですから。
そこで、ふだん、小さな祭りのオンパレードで、いわばガス抜きをしている都会ではカーニバル気分の参加者が少なく、ふだん『なにもない』場所で暮らしている若者にとっては、カーニバルの場として持っていきどころのないエネルギーを発散させたくなるわけです。『チャンス』と思うわけですね。
祝祭において、仮面をつけることで別人格になる。
とは言え、現実には、人間というものは、皆、多重人格者みたいなものですよ。
時と場、相手によって、人格をころころ変えているわけです。
変えなくていいのは、権力者くらいですかね。
それでも公私で人格が変わって忌めと思いますよ。
そういうわけですから、自分のことを確固たる人格と思う必要はないわけです。
ころころ変わる人格、その非連続性ですよ。
ずっと続く連続した人格ではなく。
その非連続性を理解できないから、自分探しが始まるわけです。
確固としてアイデンティティを持つ自分と言うのは幻想にすぎません。これは、他人に対しても言えますね。
Riveraという心理学者は、「自己の統一性」などという概念は、単に文化的規範を押し付けているに過ぎない危険なフィクションであると言っていました。
マスクという新たなモード
仮面といえば、今、皆、舞踏会用ではない衛生面からのマスクを着けていますね。
宗教的意味も気分的意味もなく、衛生面からつけています。
この衛生面からつけていたマスクですが、すでに衛生面からではなくなっている人も多い。
素材を変え、色や柄、かつての貴族の服装のようにレースをやリボンをつけているのもあります。
未だに着けているのは、衛生面もありましょうが、これはファッションの一つのアイテムとなっているわけです。
服飾にまた一つのアイテムが登場したわけですが、これはマスカレード、仮面舞踏会における仮面の現代版、リヴァイヴァルとも言えます。
このリヴァイヴァルは、ファッションデザイナーが意図したものではなく、半ば義務的に生じたものをファッション化したアイテムなわけです。
これで隠しているのは、何か。
目元ではなく、唇なわけです。
女性の唇はもともとセクシーですよ。そこだけぬめって赤いわけですから。
それを隠すと、なおさらセクシーになります。
今のマスクもかつての貴婦人のつけていた仮面のようになるでしょう。
もう、外出時は暑い最中を除いて外さないんじゃないですかね。
マスクは何より、男女ともに若く見せ、美人に見せます。
女性がこれを手放すとは思えません。
新たなモードの誕生ですよ。
機能的には、18世紀ベネツィアの貴婦人の黒い仮面と同じですよ。
意味としては。
黒い仮面をつければ肌がより白く見える。
マスクも黒をつければ、より肌は白く見えます。
そのうち、ロココを模倣したようなマスクも出てくるんじゃないでしょうか。
もうマスクチェーンなどでもレースを使ったものもありますし。
モードなわけですから、エチケットも生じます。
たとえば、かつての仮面のように、マスクを外すことが相手への敬意となるとか。
モードとなれば日常と非日常の区別が現れる。
この場合は、パブリックとプライベートですかね。
この先、パブリックとプライベートはより区別していくと思います。
同時に、リアルとヴァーチャルも区別をしてゆくことになるでしょう。
若いほど、それが可能になる。
若者が大人に反発する最も効果的な方法は、大人のわからない言葉を使う。
共通言語を拒むことによって、反発する。それが若者言葉です。
今、大人が、テレビやSNSなどのメディアを通して、節操なく、若者言葉を取り入れようとする。
言語に依っての区別が難しければ、リアルとヴァーチャル、プライベートとパブリックの区別を大人が理解できないような感覚でしてくるでしょう。
リアルとプライベート、ヴァーチャルとパブリックというような簡単なものではなく、リアルにプライベートとパブリックが生じるのは当たり前かもしれませんが、ヴァーチャルにもプライベートとパブリックの区別をしてくるというわけですね。
ファストファッションという制服
服は身体を覆い隠すという機能は当たり前のこととして、日常の活動に適した動きやすく、また、『変じゃない』ファッションになっていますが、これは、いろいろな場面で通ずるファッションが求められているというわけで、それがファストファッションになりつつある。
皆が皆、着れば、これは国民服といいますか、ゆるい制服のようなもので、いちいち自己主張せずに済む気楽さがあります。
そもそも制服は、抑圧の象徴ではなく、もともと、平等性を示すものであったわけですから。
ただ、学校の場合、『教師』という権力者がいるわけですし、あのような閉鎖空間では、制服の中に隠れて、平穏に暮らすことは、なかなか難しい。意地の悪いのがいますからね。
それが、ある程度の自由になると、端から見れば個性が消える。
ファストファッションに身を包み、川べりでも夜景の見えるデッキでもカップルが、等間隔に並んでいますね。
あれは擬態なわけです。生物学的な擬態とは違うのでしょうが、他のカップルと同じような姿を取り、見た目には個性を消し、風景の一つとしてまぎれる、ということをしているわけです。
相手に対してのみ、目立ちたいわけで、世界に対しては、目立ちたくないわけです。
DCブランドがかつてのような勢いがなくなったのは、もはや、公の場で、自分を主張するのがばからしくなったのかもしれません。
SNSがありますからね。
SNSは、自分をプライベート空間に置きつつ、自分の都合で自己主張できるという、80年代くらいに言われていた、『現代の若者』にとっては、ある種、理想空間なのです。
自分の都合で自己主張、というのは何とも、のめりこみそうです。
制服は、自分たちの外にある権力に、形だけでも同化しようというものです。
就活性のスーツもそうですね。ちなみに、リクルートというのは、もともと徴兵という意味です。
それで、皆、軍隊のように同じ格好をする。入社式と入隊式が酷似する。
まあ、それはそれとして、ところが、ファストファッションによる緩い連隊は、自分たちの外にある権力を見ていない。むしろ消そうとしている。
SNSなんかは、まさにそうですよね。
権力がある方、組織も利用していますが、あれ、スマホ上で他のメディアや個人と同じレベルに扱われますから。
『告示』ということで権力を示していたのに、『ツイート』になったらどうなんでしょう。
まあ、まだ『告示』をツイートに流すようなことはしていないのかもしれませんが。
と、いうわけで、ファストファッションに身を包み、他の群衆と同じ姿を取ることで、群衆に紛れ、権力が自分に及ばないようにするわけです。
さらに、権力以外にも、公の場において、面倒から逃れるためです。
平たく言えば、偉そうなやつは、どこが精神的な病にしか見えず、めんどくさいとしか思わないわけです。
また、多少、いつもとは違った服を着て、大学に行く。
仲の良い友達などなら、そのことを言われて、楽しく、その説明をするのでしょうが、そうでない相手から、あたかも『いじられる』ように言われるとこれは、『説明するのがめんどくさい』わけですよ。
今の世の中、仕事のプレゼンでも、それこそ就活でも、『説明』を求められますが、あれ、双方、適当なでっち上げということにうすうす気づいていると思いますよ。
単に、権力のある方が、寂寥感から説明を求めてやまない。寂しいから、説明してほしい。
そういうことに過ぎないから、若者はますます面倒になる。
こういう、でっち上げのコミュニケーションはいつごろから始まったのか。
やっぱり、バブル経済の崩壊後なのか、欧米のビジネスや教育を見習った後でしょうから、ここ20年くらいでしょうかね。
しかし、これも極まれば別のスタイルに向かうと思います。
ファッションにおいて、ポール・ポワレが20世紀初頭に、極まっていたコルセットの締め付けから女性を解放したように。
説明するほど、感覚が鈍り、当初の目的やイメージとかけ離れてゆくという経験はないでしょうか。
当初の目的ではなく、ただ、相手を納得させるために説明をする。
面倒になってくるわけですよ。
このシステム、権力を持っていたり、すでに活躍している人ほど有利に働くわけですよ。
いつまでやるんでしょうか。
あまり極まってくると、ナポレオンのような人物が登場して革命的なことをしてしまうかもしれません。
もしかしたら、売れるものの集中は、極まった大衆社会、民主主義に独裁者を求めてしまうような気分と似たようなことをしてはいないでしょうか。
考えすぎですかね。
戦前のドイツとか、どうだったんでしょうね。すでにマスメディアは発達し、広告業も盛んになっていたわけですから。視覚表現も。
人は、説明の機会が少ないほど、自由を感じ、自分なりに仕事をし、生き生きとしてくる。
これを理解している人がどれほどいるのでしょうか。
雑談で、あたかも説明を求めてくるようなのもいますから。
気楽にやりたいものです。
ブランド物のファションでも価値のある服飾品でも、それを身に着けている人物は、今の時代、なんなんでしょう。
それらを誇示しているようで、その実、広告塔に過ぎないわけですよ。
21世紀の若者の冷静な視点は、それを見抜いて、意味のある、つまりは価値を持ったブランド品や貴金属を身に着けることの情けなさに気づいているのではないでしょうか。
だからといって、自尊心は、また別のところで発揮しようとするわけですから。
女子制服のズボン
ファッションとは、伝統的な意味、共同体で共有していた意味を考えずに、デザイン、目新しさの都合で、取捨選択してしまうという技、と言いました。
意味がないということは、非難の仕様もないということですよ。それが新しいから、ということ以外。
少し前から高校生の女子の制服でズボンも選べるようになりました。
先駆けは昭和女子大付属あたりでしょうか。まだ今のようにジェンダーが大衆の意識に上がる前でした。どちらかといえば、通学時の防御のため、つまりジェンダーとは別の理由で取り入れたわけです。
それに対して違和感を抱く場合、その頭はズボンをファッションではなく、意味を持った『服装』であると思い込んでいるためです。
ユニセックスのファッションであるジーンズなどと違い、スラックスは男性の、しかも、公式の場で着るといった意味を見て取っているためです。
その意味を変えてしまう着こなしを受け入れる頭がないというわけですね。
ズボンはそもそも男女平等の服装なのですが。
モードとは衣服によるその時代の表現です。ある程度の流行と、礼儀作法の混じったものがモードです。
高校生の女子が学校に行くのにスカートをはいていくのもモードなわけです。
ただ、ズボンはほとんど見かけませんね。
作りが同じものを着せられては、微妙な差異にこだわるしかない。
「埋もれる」ことを恐れ、懸命に自分がその他にならないように抗おうとするわけです。
髪型、鞄に着けるアクセサリー、マスコット、スカートの長さ、微妙に指定されたものと違う靴など、懸命なわけですよ。
そもそも、軍隊でないのに、服装を強制する方がいかれているんですけどね。
まあ、いつか、学校の制服も消えるんでしょう。
消える前に、もし、高校生の女子がこぞってスラックスをはき始めたら、これは、ここ、そうですね300年くらいですか、そのあたりからの西洋の伝統によって付された意味が、我が国の高校生によって破壊されるという、これ、服飾史における、一大革命になりそうなんですが。
そういえば、70年代手前から80年代にかけて、西洋のファッションに革命を起こしたのも日本人デザイナーの方々でしたね。いけますよ、日本人なら。
でも、まあ、西洋でも300年くらい前まで、男もスカートというか、ワンピース的なものを着ていたようですが。下に、スパッツよようなものははいていましたが。はいていない場合もあったようですし。
しょせんは、モードでしかないわけです。男の場合、民族衣装でも着たら様になるとは思いますよ。
私は昔、中高一貫校の教職員なぞをしていたのですが、そこは制服でした。全員スカートです。ところが、短期留学など、私服を着て学校行事に参加させる場合、皆ズボンというか、ジーンズをはいてきます。これは別の学校でも同じでした。私服の学校の生徒などは、通学時、ほとんどズボンというか、ジーンズをはいてきます。
これは、どういうことなんでしょうか。
自由にさせると、皆がジーンズをはき、スカートかズボンの選択をさせると、スカートを選ぶ。
さらには、大学や専門学校に進むと、今度は半々かむしろスカートが多くなる。気がする。
これもなんなんでしょうか。
高校までは、授業以外に、服のまま動いたり、掃除をしたりするからと思いましたが、そんなことは、制服のスカートでもしています。
学校に来させる場合、制服ならばスカート、私服ならジーンズ、と言うことですが、逆に遊びに行く場合、今度はスカートではなく、むしろジーンズになり、学校に行くのにジーンズで言っていた人は、一部はスカートをはきます。
やっぱり、学校と言う場は見えない強制力のようなものが働いているわけでしょう。そして、その感覚を植え付けられて社会に出る。
19世紀に女性が事務仕事やサービス業に出ていった。
新しい職業なので、非難も比較的少なかった。
しかし、女性たちは単純な労働着はきたくない。
そこで、テーラードスーツを着るようになった。
テーラードスーツはズボンをはきます。
ズボンはファッションとしてではなく、『服装』としてのものですから、そこには意味がある。それで、女性がズボンをはくことに違和感を抱いた人々がでる。
専門学校生や大学生がまちまちなのはそこにあるものが学生としてのアイデンティティーよりも、個人的なアイデンティティーを優先させる人が多くなったからではないでしょうか。
就活時になると、ズボンをはいている人も少なくないですね。
あれは、学校とは違うからでしょうか。
高校生の女子が同じように学校に通う場合、服装としてならば、スカートをはき、ファッションとしてならば、ジーンズをはくということになります。
意味を持った、高校生としてのアイデンティティーを欲しがれば制服であり、高校生の女子としての意味を持つ規定されたスカートであり、個人的なアイデンティティーを求めればジーンズなど、自由に着こなすわけです。
まあ、そっちは楽だから、無難だからということもありましよう。
ていうか、制服のスカートも無難だからはいているのでしょうね、いちいち自分の与えられたアイデンティティーを覆すようなことは面倒でしょうし。
これがこの場の結論ということで。
ま、それだからヴァーチャルでまた別人になりたがるわけです。
抑えれば反発の力が強くなります。
光を強くするほど影も濃くなるということですよ。
中高で制服を着続けた女子と私服の学校を選び続けた女子では、その服装に応じて、しぐさや行動に違いが出る。
成長期の脳の発達時期において、しぐさや行動に違いが出るとなると、これは、脳の出来具合に違いが出てくるのではないか。
知能ということではなく、脳の発達する部位に違いが出てくるのではないか。より身体的な部位においても。
女の子が小さい時に、スカートを与えられる。
スカートは女性の衣装ですから、これは女装させられるわけですよ。
美大生など、その仕事からして、女性らしい服装を着る意味のない女子は、たとえば、成人式や、各種行事などで、晴れ着やドレスを自分の意志で着る場合、どんな感覚なのでしょうか。
女装している感覚にならないのでしょうか。それともコスプレ気分で着るものなのでしょうか。
私は、もともと出版系にいたので、仕事中も私服でした。
それが大学などで仕事をするようになり、スーツを着る。仕方なく。
まあ、いうほど、スーツでもなかったのですが、まあ、スーツを着ていたことにしていてください。
その場合、なにか新鮮な気分ではいましたね。
いわば、『サラリーマンのコスプレ』をしている感覚でした。
丸の内とかも『なんちゃってサラリーマン』として歩いちゃおうか、くらいの気分でした。
就活時にパンツスーツというか、テーラードスーツ、それとスカートをはいている女子は、果たして、中高の時に、私服の学校だったのか、制服のスカートをはいて学校に通っていたのか、興味がありますね。
そもそも、服装を強制するのは、その人の感覚も強制するようなものですから。普通、しないですよね。
伝統のデザインを取り入れる
ファッションが70年代あたりに新しいものを生み出す力がなくなったというより、近代以降の生活に伴う服装がある程度固まってきたために、新たなものを作り出そうという飛躍が難しくなった。
ファッションは流行であり、常に目新しさがその要点となるところが、過去を見なくてはならなくなったのです。
しかし、過去に立ち戻っても、その時代の意味など考えません。ただ、レトロがおしゃれと言い張って、作って売るわけですから、もともと服装にあったような意味が復活したわけではありません。そんなもの復活したら窮屈ですからね。
そうして、20年代、50年代あたりのファッションをリヴァイヴァルするようになる。
80年代くらいからでしょうか、そこに民族衣装を取り入れたりしてきます。
民俗芸能を取り入れる手法は、ピカソでもマチスでもすでに美術の分野で行っていた荒業です。
荒業というのは、もとより、民族衣装は、民俗芸能と一体化して、そこには信仰が伴っているわけです。土地の人々にとっては。
その頃、鉄道や船舶の航路が発達し、アフリカでもさらに奥地に行けるようになりました。
そこでは、政治的経済的なものが目的でしたが、そのついでに、現地の珍品を土産として持ってくる。仮面や民族衣装ですね。
それがパリの街角の道具屋や美術店の店先に並ぶ。
そこを通りかかったピカソが『なんだこれは』と驚愕するわけです。
ピカソなどは、その衣装や特に仮面ですね、仮面についている信仰、つまり意味をあっさりと捨てて、その表面だけ、デザインだけを参考にしてしまったということです。
とてつもない飛躍ですよ。
単にネタとして、『これは使える』という感覚で持ってきたわけです。
今のデザイナーや漫画家と同じ感覚ですよ。
20世紀は、この行為によって、身軽になったといっても差支えがありません。
そのものにある意味、つまりは重さを捨てて、軽く、取捨選択、いるものだけ取って、いらないものは捨ててしまう、こういう行為を当時の文明国に広めたわけですよ。
これこそがファッションなんですよ。
そのものにある意味、重さを捨てて、あっさりと、その時々の気分で自分の個性を作り上げる道具にすることができる。
今の日本で、ファッションでも建築でも、それこそ広告でも、つまりは芸術などよりよほど、時代を露わにし、人々の深層意識を浮かび上がらせているものですが、これらも装飾は減っているようです。
映像も、モーショングラフィックは盛んですが、とにかく動かして、目につかせよう、少し前の、WEBにあったGIF広告のようです。
まあ、同じ連中がマーケティングしているのでしょうが。
マイナーチェンジでしかないものに目新しさを感じて、『今度こそ』と欲の欠片を拾い続けてしまう。
『成し遂げたい』という欲求とそれをなしえたときの気持ちよさは、勉強や仕事の上で達成すれば成長にもつながります。
しかし、普通は、メディアや環境に影響されるために、つい消費活動でその欲求を解消しようとします。
メディアなどにはその『目標』が楽しげに並べられ、また羨むようにデコレーションされているが、それがマーケティングですから。
解消に過ぎない行為に、出口などあろうはずがないんですよ。
もしかしたら、機能主義が進み、合理的、論理的になりすぎて、装飾がよくわからなくなっているのかもしれません。公の場で。
たとえば、日本の伝統工芸を現代の建物に装飾として使用するということがあります。
レストランでもホテルでも。そこに機能性はほとんどない。あったところで、後付けのようなものとなる。
目新しい、なんかジャパニーズテイストでいい感じ、とか、そういう程度に過ぎない。
かつて、20世紀の初めにピカソやマチスが、民俗芸能や儀礼の上面だけとって、絵画に張り付け、その後、ファッションでも同じようなテクニックを使用し民族衣装の模様、さらには幾何学の図形を模様として使用することに至った行為がありましたが、ここ10年くらいですか、もう少し前からですか、日本人が、自分の国の伝統工芸の意味を排し、装飾として使うような軽さを身に着けたわけですよ。
日本人の伝統に対する意識もここまで来ました。
職人もデザイナーに共感し、『新しいことをやらないといけない』と思って活動していらっしゃいますが、この『新しい』ということこそ、ファッションの本質であり、常に『新しいもの』を提供し、売り続けることを信じようとしているモードに他ならない。
日本の伝統工芸も、ファッションとなり、モードとして流通することに、何ら重さを感じなくなったということです。
使用者も違和感がない。新しいデザインとして受け入れる。
明治以降の西洋化も、とうとう、感覚として見に着いた感じでしょう。
こういうある種の合理主義が、その後の20世紀を形作る。大量生産、大量消費という行為の前提になったと思います。
この感覚はかつては少なくとも庶民にはなかったと思いますよ。
アイデンティティーが日常的に変わるわけですから。
それまでは、アイデンティティーを変えていいのは、祝祭の時と相場が決まっていたわけです。
ヴェネツィアのカーニバルが典型ですね。
カーニバル期間だけは、仮面さえつければ、アイデンティティーを変えてよかったわけですよ。
ただ、それだと、行政が困る。
仮面をつけたくらいで、別人になったら、管理統制ができないわけですから。
皆、『自分ではない』になってしまうわけですから。
そこで、近代国家は、祝祭を抑えつつ、日常的に、少しだけアイデンティティーを変える機会を認めるわけですよ。エンターテイメントを流行らせて、ガス抜きをさせるわけですよ。
そうした中でのファッションというテクニックの登場です。
民族衣装についても、気候や風土などは考慮しません。
寒い国、冬にどんよりとした空が当たり前であるような国で、強烈な日差しの下で映えるような色彩や意匠を取り入れるわけですよ。
目新しいから。
リヴァイヴァル
ファッションについては、リヴァイヴァル、民族衣装の上面を取り入れる。そのほかに、そもそも服というものの概念を崩そうとするような試みもありました。70年代から。服の可能性というよりも不可能性から示したり、アンチ・モードであったり、服を着るというより、着た服がその人の動きでどのように変化するのかに焦点を当てたようなデザインであったり、本当のところで、着る人の着こなしに任せるようなファッションですね。これが、主に日本人デザイナーの発表によるものでした。
ただ、もう服の売り上げが上がらないというのは、パンデミックのせいというよりも、もうファッションがファッションでなくなった、ということに感ずいたことはないでしょうか。
ファッションがファッションでないのなら、なして、毎年新しい服を買う必要があるのかと。
確か、アメリカの学生でしたか、『ファッション・ボイコット』と題して、一年間新しい服を買うのを止そう、という運動を始めていましたね。
パンデミックの前ですよ。
21世紀に入ってから、ファッションがファッションでなくなっていることをうすうす感じていたところ、パンデミックで意識してしまった。
パンデミックはきっかけに過ぎない気がします。
ファッションがもうファッションでないのなら、普通の手ごろな服を買う、おしゃれはアクセサリー、さらに手軽なリボンなどの小物でする、といった感じになりつつある気がします。
むしろその方がかっこいいんですけどね。
20代の時に年間20万も30万も服を買っていた人間から見れば。
奇抜な格好をしたがる
あの頃を思い返せば、奇抜なファッションをしたがるというのは、泣きたいんだと思いますよ。
そこでDCブランドが、泣きたいのに、泣けないというか、泣く場を持たない青少年に対して、自尊心をくすぐるような服を展示するわけですよ。
丸井に。
それは、別にファッションだけではありません。
音楽業界も芸能界も、エンターテイメント系は皆、そうでしょう。
もしかしたら、今、いい大人までもがアニメやゲームを楽しんでいるのは、泣きたいのに泣けないからではないでしょうか。
金に任せて奇抜なファッションをしてしまう、たまにならいいのですが、日常的にしたがるという場合、はっきり言って、情況を考えた方がいいです。
すぐにできないのなら、別の道を探った方がいいです。
若いのに、背伸びして、ブランド品を買う、または買い与える。
ああいうものも、優越感に浸るためであるとか、自分が偉くなった気がするとか、そういうこともあるでしょうが、何より、心の奥底では泣いているんだと思いますよ。
その表れなんですよ。
小児が泣くのは、何をどうしたらいいのか、わからないから泣いているんですよ。
それにいくらおもちゃを買い与えたところで、その場限りで、何も解決しません。泣き止むだけです。
悲しいというよりも、何をどうしたらいいのかわからないから泣いている。
そこで、10代になると、お金や時間や体力に任せて、奇抜な格好をしてみたり、ミュージシャンやアイドル、またはアニメやゲームに夢中になるわけです。
自分なりにどうにかして生きようとする前に、商売人が、すっと、『こんなんどうでっか』と、差し出してくるわけですよ。
それで収まらなければ、格言や人生のアドバイス、占いに走るわけです。
人生のアドバイスをしたって始まらないんですよ。
大人は、特に男性はしたがりますが。権力と威光を示せて気分がよくなるからというのと、ていうか、それしかできないということの方が大きいでしょうか。
特に役職についているような場合は、そこから動けませんから。
自分が何かにしがみついているのに、若者に対して、何が言えるのでしょうか。
人生のアドバイスというものほど、たやすく、またいい加減にできるものはないといっても差支えはないくらいですよ。
今、様々な人生の啓発本、生き方の本などが並んでいます。電車の中でも広告が出ています。
今、『今』といいましたが、今に始まったことではありません。
今に始まったことではなく、いつまでも、いくらでも出版されています。
これは、つまり、正解なんてないということなんですよ。
人生のやり方の正解があったら、それで片付くわけですから。
ないのにあるかのように示している。商売なわけですから。
それなのに、人々は、正解を探し求める。
あたかも、縁日の籤のように。景品が飾ってあるだけで、当たるように思えます。でも、あたりは入っていない。
自己啓発本に夢中になる大人は、縁日の籤を引きたがる小児と変わりはしません。
子供だましでは受けないから、大人向けに工夫をしているだけで、あれ、縁日の籤ですよ。
合格体験記を読んで、同じようにできる高校生がどれだけいるのでしょうか。
合格体験記は、単なる予備校の広告ですから。
半端に啓発されちゃって、自分の人生をどこかにやってしまう場合だってあるわけですよ。
泣きたいのに、泣けない。
現代人は。
泣くのではなく、行動しろ、努力しろ、何より、泣くなんて感情的な態度をとるのなら、論理的に主張しろ、と、こう来るわけですから。
昔の人間はもっと泣いていたと思いますよ。
実際に。
儀式でも、『泣く』というしぐさをするようなものもあります。
それができなくなる。
泣くという非合理的な自己主張をさせないから、できなくなってしまう。
しかし、合理的、論理的な言葉だけでは表現しきれないものが、人の心にはある。当たり前のことです。
というよりも、言葉にしきれぬものの方が多いわけですら、合理的なものを重視すればするほど、むしろいわゆる闇は深まります。
そういうものは、非合理的な表現で出すしかないのです。哲学者以外は。
哲学者は仕事ですからね。わからぬものと向き合いますから。
多くの人にとっては、泣くに等しい非合理的な主張をどのように、どこでするのか。
カーニバるなのか、蕩尽なのか、感情を出せる場ですね。人なら頼もしいですね。
論理的に考え、自分は強い、確固とした人間と、思い込む。それが長くなるにつれ、泣き方も忘れてしまう。
感情の出し方を忘れるからいわゆる『鬱』になる場合もある気はします。
かっこつけすぎなんでしょうね。わかっているんですよ、そんなことは。
ぱぱっと、動けないのは、かっこつけて、損得で動こうとしているからなんですよ。
ともかく自分の好きなものは何でも手を出して、遊び続けるしかないのかもしれませんが。恥ずかしがらずに。
恥ずかしがらないというのは、ある種の対等関係ということですよ。
礼儀は踏まえたうえで、権威は気にしない。そういう態度を持ち続けられたら、何とかなりますよ。
『楽しいかどうかで決めたらいい』なんて、よくアドバイスでありますね。それを踏まえつつ、同時に心の底では泣いているんじゃないか、無理をしているのではないか、ということも見てやらないと。自分で。自分を。
バランスが取れているのか、周りが見えているのか、ということです。
周りというのは、周りの人たちが、利益や欲得ではなくて、そこにいるのかということですよ。
まあ、何ら意識せず、天然自然に欲得で動く連中もいますが。そういう連中は世の中で活躍しやすいそうです。
社会学の調査でも、性格の良い人は出世しないとでいるみたいですし。
それはそうでしょうが、なら、なんとかすべきなんじゃないですかね。権限ある人々が。
後は、物欲しがらないことですね。情報化社会ですし。『自分も人並みに欲しい』ということになりますから。
『人並み』の『人』が多すぎるんですよ。
氾濫するあらゆる『人並み』をクリアしたら、それはもう人並みじゃなくて、単に恵まれている人です。
まあ、もちろん、みんな、恵まれている人になりたいんでしょうが。
しかし、世の中にはそういう思いを商売のタネにしている人々が数多くいるということも忘れない方がいいと思います。
会社の経営者、役職者、または芸能人、アーティスト、クリエイター、少し精神がいかれていないと続かないような職業の方々は本当は、憧れの対象にすべではなく、『ふうん』、『へえ』で済ませられたらいいんですけどね。
かつての王様が道化を見るような目で。
難しいですけどね。
アドバイスをしたがる方は、自己中心的ですよ。
一見、親切なように見えて、平気で別次元の論理、たとえば、仕事の話と自分の個人的なことを繋げようとしてきますし。
もしかしたら、奇抜なファッション、もしくは庶民なのにブランドを持ちたがる心情というものは、ギャンブルに近いのかもしれません。
『いつか当たるはず』と、思いながらギャンブルをし続けるのと同じで、『いつか、自分の思い通りの状況が手に入る』、『いつか、自分の扱いがよくなる』、そう思いながら、服を買い続けたのかもしれません。
ファッションが自らの伝統に頼る
シャネルが、N°5の売り出しを今更していますが、シャネルでさえ、自分の伝統を売りにし始めたということですよ。
新しいものを作り続けるしかないはずのファッションが伝統を持ち出したわけです。それは、広告のアートディレクションにも表れていますが、時代の最先端を行くことが存在意義であるファッションブランドが、自分の過去を持ち出す。
『時代に左右されない』、『今でもなんら古さを感じない』と言うことも、もちろんあります。
女性の甘美さではなく、存在感のため、だからこそのN°5で、今でも売れているのですが、それを今更広告で全面展開するということが、もう新しいものを作り出す状況、世界ではなくなりつつあることの徴に見えます。
それと同時に、『違い』を見出し続けることに倦み、皆、楽になりたがっている気がします。
売る方も、買う方も。
N°5は、瓶もまたシンプルですよね。ふつう、といいますか。始まりの頃の無印良品が目指したものといいますか。ごく自然です。
『これで十分であり、かつ普遍的』なデザインになっています。
『新しくない』モードの予兆
しかし、この広告は、シャネルだからわざとかもしれません。かつて、戦後に復帰したシャネルがまたしてもシャネル・スーツを発表していましたし。
『新しくない』ことを示したわけですよ。
今のN°5の広告もその線なのでしょうか。
もしして、この先、『新しくない』ということが社会のモードとして定着するのでしょうか。
それ、おもしろいですよね。
逆に、いくらでもアイデアがわきそうです。
建築にしても、新しく建てるのなら、新しさを出さなければと、勘違いしていませんか。
個人的には、60年代、70年代の建築物の方が街中にあって、個性的でありながら、立派に見えますよ。
広告も、イメージ広告なら80年代でしょうし、ネタなら90年代でしょうし。
今、そういった、本来、モードをつくるジャンルがセルフイメージを追いながら、そのうえ、オリジナルにこだわろうとして、しっくりしたものができにくくなっているのかもしれません。
もう、無理やり新しさをひねり出さねばならないクリエイターたちを解放してやったらいいんじゃないですか。
クリエイターはアーティストじゃないんですよ。むしろサラリーマンなんですよ。食うために仕事をしているんですよ。何を期待しているんですかね。
キャッチコピー一つとっても、紙を広げて、プロッキーで100も200も書き出して、それで宣伝して売ろうとしているものが、どれほど社会にとって有用なものなんでしょうか。
いったい、何をしているのでしょうか。
クリエイティブなことをしている?
人の心を動かしている?
物を買わせるために?
だって、いつか限界に達しますよ。
もう達していて、今のクリエイティブもどこか精神の痙攣の表れとなっているのでしょうか。
口コミは読んでも、キャッチコピー、ましてボディコピーとか読んでいるんですかね。
少し前に、グッチだと思いますが、日本の寺とコラボしたイベントを開いていましたし、伝統にすがるというか、アートの手法で目新しさを出しているということでしょうか。
この場合のコラボは、『伝統』と言うか、そこから意味を外したファッション、書割が言い過ぎなら舞台装置としての寺ですが。
舞台を提供する方も、デザインとして利用されることに違和感も感じなくなってきたんでしょうね。
『日本文化に触れてもらう機会』という大義名分がありますから。
正確には日本文化から意味を外した上面の部分ですけどね。
昔、と言っても四半世紀くらい前ですが、それなりに歴史のある茶室に導火線をぐるぐる巻きにしていたアーティストがいましたが、あれは確かにアートでしたわ。
オートクチュールは、『金を着る』という側面もあったのでしょうが、今のハイブランドは、高級既製服にさえなっているのか。
漫画やゲームの絵やロゴをプリントしたものを高級既製服として売り出す、それは、見かけ上の均質化、金持ちも庶民も同じ価値観で生き、その財力に応じて欲望を消費する社会が成り立っていることの表れなのでしょうか。
一見、ハイブランドの物なのか、ファストファッションの物なのか区別がつかないものもあります。
価値観が同じになったということは、庶民が富める者の『高貴な義務』に合わせるのではなく、逆ですから。
富める者が庶民の義務にしか合わせないということですよ。
こうなると、まず、社会の不平等を解消するのに、行政の力に頼るしかない。
価値観が同じ相手に対して、革命を起こせないわけですから。
また、肝心の文化に関しても、向上が難しくなる。フランス革命後のしばらくの間、成金しかパリにいなくなってしまって、文化や服のセンスが全く向上しなかったということがあります。
今の時代は、クリエイターが新しいものを作れなくなっているというよりも、富める者が庶民の感覚しか持てずに、庶民と同じく、欲望を消費することしか能がないから、クリエイターの方としても、作って売るだけ、金がある庶民でしかない相手に、いかに商売をするか、わかりやすいものを売りつけるか、という状況になっているのではないでしょうか。
金の魔力に呑まれない人間はいないと思いますよ。
今の時代、広告を超えて、マーケティングが重要視されている。ファッションでもエンターテイメントでも。
それは、もはやデザイナーや作家が時代を作ろうと、個人的な力量ではなく、プロダクト企業として、いかに売るのかを求めていることを示していると思います。
その中にいて、『新しいもの』を作れと言われても、デザイナーも難しいでしょうね。
確か、30年前くらいだったでしようか。ラジオを聞いていたら、倫理学者だか、哲学者だかが、『いずれ、科学はあらゆる現象を解明してしまい、その後はその知識を継承してゆく伝統文化のようになってゆく』と、おっしっゃっていました。
ファッションもそうですが、デザインもエンターテイメントも、やりつくした後は、継承するだけになるのかもしれません。
その時代、人は、もっと違う快楽のやり方に浸っているのかもしれません。
参考文献
奇想の20世紀 / 荒俣宏著 2004
都市を翔ける女 : 二十世紀ファッション周遊 / 海野弘著 1992
ヨーロッパ服飾物語 / 内村理奈著 2016-2019
ひとはなぜ服を着るのか / 鷲田清一著 1998
みっともない人体(からだ) / バーナード・ルドフスキー著 ; 加藤秀俊, 多田道太郎共訳 1979
ファッションの歴史 : 西洋中世から19世紀まで / ブランシュ・ペイン; 古賀敬子訳 2006
庭園美術館で奇想のモードと言う美術展がありました。
松屋銀座。
いかに価値があるものに見せるか。
NFTが心理的な所有感覚をもつデジタルアートや収集品として注目されたことは、複製技術に過ぎなかったものに希少性を持たせることに成功したからに他ならない。
ファンというものは、愛着があるものに対して、お金を使う。
アイドルでも、ファッションでも。
更にアイドルが苦労話の一つでもすれば、そこに情が生まれて、更に応援したくなる欲望を人間は持っている。
すでに売れているミュージシャン苦労話など、自慢話でしかないのであるが、応援したい対しよう、お金を使いたい対象を探している人間は、それで納得してしまう。
作品だけでなく、一人の個性をブランドとして売る。
それがファンからのバーチャルな『信頼』を得る手法である。
常に、ファンに対して、自分が何をして、何を考えているのかを伝えてあげれば、ファンは安心してついてくる。
SNSでも、ファンサイトでも使って。
まさしく、サラリーマンの『報連相(ほうれんそう)』そのものである。
これは、アイドルだけではなく、今時、デザイナーでも、芸術家でも同じことなのである。
ジュエリーや化粧品、ファッション全般の新ブランド立ち上げを支援してくれるサービス
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