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【小説】ブラボー親爺【12枚】

『徒久多゛煮』と太く勘亭流で書かれた行燈が軒先にかかる。木枠のガラスケースには佃煮が並ぶ。佃煮に挿してある薄板には価とともに、『あさり』や『うなぎ』と書かれてある。くつがえった札が二枚ある。

 店の奥、上がった六畳間にはちゃぶ台を差し挟んで親爺二人が相対す。

 手近にラジカセを置いてある。ベートーヴェンの交響曲第九番の結びの部分が流れる。

「せーの」と、ブラボー親爺がラジカセに耳を傾ける。

 第九が歌い上げられた。

「ブラボー!」と親爺二人の声が立つ。

「うん、早すぎる。なにしろ年納めだ」

 ブラボー親爺の力んで眼を向けた先の柱には、日捲りがかかる。大晦日を示す数字には、『王子』とマジックで太く書いたのが丸でかこってある。

「よくよく聞き届けてみろ」とテープを巻き戻し、再び第九が鎮まりかかる。

「よし来た、よし来た」

「ブラボー!」と親爺二人の声が一瞬間、前後して上がる。

「ああ、もうちっとだ。すぐに入れねえとな。ほかの者に先を越されちまう」

「いや、こんだこそ、わかった」と白衣に白帽をかぶり、紺の前掛けに『パンの花田』と染め抜いた親爺が頷く。

「ちょっとあんた、店までブラボーって聞こえるんだよ」と佃煮屋のおかみさんの鋭い声が、障子を越えて座敷まで飛び込んできた。

「放っとけ、放っとけ。いいか、音が収まった瞬間に息を吸って、そして『ブラボー』だ。いいな。音がやんだ。息を吸って『ブラボー!』だ」

「ああ」

 ブラボー親爺はテープを巻き戻す。ラジカセから音楽が流れる。固唾を呑んで待つ親爺二人。「あさりを百グラム」と店先から客の声がした。

「ブラボー!」

 二人は、出来具合いを確かめる様に間を置く。

「よし、この間合いだ。忘れるな」

「少し店の方を見てくる。きなこパン揚げとかないと」とパン屋の方は立って出た。

「六時に王子ホールだ。このあいだみたいに渋谷公会堂と違うからな」と声だけで送りながら、壁の時計を見る。

「まだちっとばかり早いな。腕立て伏せでもするか。一、二、三、四、十。と」

 立ち上がり、その場で駆けだした。

「ほっ、ほっ。ほっ、ほっ」

 おかみさんが店から顔を出し、

「ちょいとおよしよ。畳が擦り切れちまうよ」

「声を出すには体力が必要なんだよ。歌い手を見ろ。一つの肉体芸術家だ。体を鍛えているからこそ、好い声が出るんだぞ。あ、ああ、あああ、ブラボー!  よし、咽の調子も万全だ。これで今日の王子もいただきだ。ええと、三時か。まあ早めに行っとくか。じゃあ、行って来るからよ」と衣桁に掛けた紺の背広を着込み、その上には銀のジャンパー。

「まったく、この暮れの忙しい時にコンサートなんて、よく行けたものだよ。店番しないんなら、数の子くらい洗っといたらどうだい」と言いしらけて店に戻るおかみさんを尻目に、ブラボー親爺は店を出た。

 

 佃煮屋ものれんをしまう。『徒久゛多煮 赤松』と朱塗りの額が懸かる戸口には、竹に松の枝を結び合わせた物に梅と南天を添えて立たせ、注連縄が引かれてある。おかみさんは田作りを重詰めにしている。

 路地を三毛猫が刻み足でやって来て、玄関先に出した門松の、宙に漂う藁の先を嗅いでいる。『食べ物かね』というけしきである。それが猫にとっては、何でもない物と悟ったらしく、立ち去った。

「はんはんはんはんはんはんはんはん、はあ、ははん」と路地の向こうから詞のない歌を先に届かせて、ブラボー親爺が帰って来た。

「帰ったぞー」と玄関に腰を下ろす。

「まったく、お客さんの相手もしないで」

「お客なんざ、おめえ一人で十分だ。年納め、年納め、と」

 ブラボー親爺は座敷に上がり、背広を脱いで衣桁に掛けた。

「何が年納めだい。コンサートに行っただけじゃないか」

「何を言ってやがる。年納めだから第九なんじゃねえか。やっぱり暮れはベートーヴェンよ」

「ベートーヴェンって面かい。だいたいベートーヴェンは医者に止められてるんじゃなかったのかい」

 ブラボー親爺は坐るより先に、ビールを一杯あおる。

「そんなの大丈夫だ。芸術なんだからな。芸術に参加してなんの憚りがあるか。いやあ、それにつけても今日は思う様出来た。花田もよ、多少、鼻音が勝ち過ぎていたが、二人同時に、『ブラボー!』よ。曲が収まったら、間髪入れずに叫んだからな。テープはちゃんと取っといたろうな」

「一応、ラジオは取っときましたよ」

「よしよし。よきかな、よきかな」とラジカセをちゃぶ台の脇に据えた。

「そういや、うちの無茶助は、今年も帰らねえのか」

「一昨日からハワイに行っていますよ」

「聞いてねえぞ、おれは」

「言ったじゃありませんか」

「毎年毎年。正月にゃ、ハワイか。浅利の一つくれえ、剥きやがれってんだ。だいたい、あいつの会社だって何を売ってんだか、得体が知れねえ」

「物を売るんじゃなくて、ある種の情報仲介業なんですよ」

「へっ、胡散臭え。客も社員も、社長に騙されてんじゃねえのか。商売人の癖に、物を捌かねえでマネーの上ばかりで世を渡ろうって肚だ」とテープから流れているのが、録音の始めと知ると、

「何だこりゃ。あたまじゃなくて、おれはけつが聞きてえんだよ。巻き戻すなって言ってんだろ」

「知りませんよ。機械が勝手にやるんですからね」

「しょうがねえな」とテープを早送りする。

「このあたりか」

 第一楽章の結びが流れた。

「何だ、違うか」とラジカセをひねくっていると、テープから激しい咳が乱れ聞こえた。

「おっ、この咳、この咳のなかにはおれのもあるんだ。どうだい。え。この咳は」とブラボー親爺は指先でラジカセを軽くはじく。

「どうだいって、音楽堂というより、病院の待合室の様だよ」

「だってよ、おめえ。せせこましい所で、じっとしててみろ。音楽が鳴る間は、のろりふらりとすることもままならねえ。収まって、やっと、ああ休みだって、思わず咳をしちまうのよ」

「あんた、いったい何をやりに行ってんだい」

「欧米人てのは、ああいうのが平気だよな。長い冬をよ、ろくに顔も出ねえ御天道様の下、暖炉の前でじっとしてんだろ。慣れてんだよな。その点、江戸っ子は気が短けえからよ、からっと外に出てえもの」とブラボー親爺は咽を鳴らして、ビールを飲み干す。

「かああ、今日も咽を使ったからしみるねえ。胃の腑を用いるまでもねえや。おれは咽で飲んじゃうね」とまた一杯。

「いやあ、まったく。今年は咳まで根っからうまく行ったな。わざわざS席を取った甲斐があったってものよ」

「よくもそんなことにお金をかけられますよ」

「何言ってやがんだ。去年なんか、おめえが『餅代が』とかなんとかぬかしやがるから、こっちも控えてP席にしたらぜんぜんテープに入ってなかっただろう」

「わたしの言ってるのは、そんなことじゃありませんよ。わざわざ咳だの、ブラボーだの、わけのわからないテープを取るために高いお金を払って。こんなにテープをとってどうするんだい」

「形にして残してえんだよ。おれだって」

「世のなかにはね、形にしない方がいい物だってあるでしょうよ」

 テープの早送りが済み、第九のどんづまりが流れる。

「いいか。ここで耳を澄ませて頃合いを待つのよ」とブラボー親爺は説くが、おかみさんは放って置く。蕎麦を茹で始めた。

「よしきた、よしきた」

 テープでは曲が果て、親爺どもの『ブラボー』という泥に濁った様な喝采が聞こえた。

 続いて聴衆の掌を打ち鳴らすなか、『ブラボー! ブラボー!』と繰り返す絶叫止まず。

「聞いたか。これはアドリブよ。おれが言う間に、花田が『ブラボー!』やつが言ったら、おれが『ブラボー!』見事だね。存分に録音できた。年納めはこうでなくちゃ。まったく今年はオペラシティといい、おれの『ブラボー』がよく響いた年だった。ありゃどこだったか、確か紀尾井ホールだったか、からっ下手(ぺた)がまだ音が鳴ってんのに、『ブラボー』とか言いやがって。余韻までが曲なんだから控えないと」

「あんただって大して代わりゃしないよ」と蕎麦を茹で上げる。

「何言ってやがる。ありゃ、クラシックを知らねえやつだ。言いたいだけだな。最後のピアノの『ジャン』が収まって、その後の余韻が落ち着いた際(きわ)で、叫ぶのがしきたりってものだろ。それをあいつは『ジャンブラボー』だ。何にしろ、ほかはおれの勝ちだ。家で練習してきた甲斐があったってものよ」

「いい加減、当たり前に聞いたらどうだい」

「おれはこれが生き甲斐なんだよ」

「生き甲斐はいいけどね、家でやるのはおよしってのよ。あんた、この辺で何て言われているか知ってるのかい。『ブラボー親爺』だよ。『ブラボー親爺』」

「何を。ブラボーのどこがいけねえってんだ。だいたい、歌舞伎だって、『音羽屋』だの言ってるじゃねえか」

「歌舞伎とクラシックをないまぜにしちまうのかね。この人は」

「変わりゃしねえよ。みんな弁当でも食いながら見てえんだよ。御神楽様みてえにな」

 ブラボー親爺はテープを箪笥にしまう。

「よしよし。年明けはまず、四日にトッパンだ」

「はいはい。お蕎麦にしようかね」 

 

                                      了


 

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