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【民俗学漫談】宗教のサブカル化

前回の漫談で神社はフレキシブルな場だと、漫談しました。

それで、フレキシブルな場である神社が時代の需要に答えようとして、サブカル化している気がしているんですよ。

神社にとどまらず、日本においては、宗教って、もはやサブカルチャーなんじゃないの、とさえ。

民俗学って、民間伝承を素材にして、人間の暮らしを見ようとするものだとされてますよね。伝承とか、暮らしぶりとか。

それを具体的なモノとしてクローズアップしたとたんに、サブカルチャー的な感覚が出てきます。

民俗学って、サブカルチャー扱っているんですよ。大雑把に言うと。

当時の。あんまり、中心じゃないですよね。日常とか、別の世界の話とか。

文学があって、美術があって、政治経済? そのほかたくさんありますが、それらとは違う視点で見る。それは、サブカルとして見ているんじゃないかと。

いや、私だけかもしれないですけどね。

宗教学は、宗教を扱う。宗教は人間の暮らしの規範を与えてきたから、メインカルチャーを扱っている学問ですね。

またね民族学なんてのもありますね。これは、自分たちの外の人々を観察して、自分たちと比べます。ある宗教、ある文化であって、自分の文化ではないという視点ですね。

民族学が「外」を扱って、宗教学がメインの一部で、民俗学がサブカル。

って感じで、考えています。

民俗学って、人間の日常を扱っていますから、物語とか、「ブツ」とか扱いやすいんだと思います。

例えば、私、神主をやっていたんですが、神社。

神社を宗教学の面から見れば、教義や国家神道や祭儀の話になります。

民俗学の面からすれば、そこに集まる人々の視点を見る事になる。それは時代によって変わりますが、どのような場なのか、何を使っていたのか、何を求めていたのか。

民族学の点から、見る事も可能でしょう。日本にいたって、アウトサイダーの目を持っていれば、神社が異様な場に映るわけです。ああいう構造を持った場は、何のためにあるのか。という。

ここは、民俗学漫談ですから、サブカルチャー的な視点で行こうかと思いきや。

とっくに神社がサブカル化しています。最近。

漫画やゲームにおいての扱いにとどまらず、メディア全体の扱いですよ。

最近、又盛り返しつつあるのは、テレビや雑誌などのメディアが、サブカルチャーを扱うのと同じスタイル、同じ次元で紹介しているからじゃないのかな。

敷居がまったくない。日常と同じ水平線上にあるパワースポットやイベントスペースとして。初詣はお願いのイベントだし、七五三などの通過儀礼も、祈祷よりも記念撮影のが大事そうだし。神主に「写真撮ってくれますか」とは言わないでしょ。神域という意識と神主が何のためにいるのかを知っていれば。

当然、宗教者との齟齬は生じるよね。向うは、メインカルチャーだと思っているから。しかし、かかわる方にとって、宗教をメインカルチャーとして見る、というのは、占いをメインカルチャーとして見ろと言っているようなものでしょ。

リアルな共同体がその信用を減らし、個の活動が増えて行けば、サブカルチャーは発達しますよ。

そもそも今、メインもサブもなく、自分が世界の中心として存在し、生活のことごとくは、自分で選ばなければならない、同時に判断ができるという感覚では、すべてをサブとして扱うでしょ。自分を一段高い場におき、対称を相対化する。

これ、今の人間の当然の流れなんですよ。これだけ、毎日選択と事務作業していれば。脳の構造って、普段の行動で変わっていくらしいですし。

現在のweb中心の時代は、メインカルチャーが消え、すべてはサブカルチャー化していると思うけど、それは、自分がメインのカルチャーになっているからでしょ。自分の暮らし方がメインカルチャーに他ならない。自分がメイン。当たり前。そこでは自分が絶対となる。自然の流れ。自分を絶対とすれば、あとは、相対化するしかないから、その都度、都合に応じてそのものの字義通り、「取捨選択」をしていく。多くの中から選び、、自らの手で、取り、捨てる行為を日常的にしている。

オペレーターであり、作業だね。

スケジュール帳に参拝の日とか書きこんじゃうんし。

サブカルと言えば、アニメに神社やお寺が出てきらアニメファンで当の神社が「聖地」と呼ばれてごった返すと言う現象が何年も前から起きています。

「聖地」という名詞を自分たちの感覚で編集し直して用いてるよね。参拝を「聖地巡礼」とか言っているし。

不思議な言い方だけど、巡礼は内にいる自分が外の中心に向かう行為だからね。内から逸脱せず、日常と同じ水平線上で移動するのは、巡礼とは言わない。日常行為に過ぎないよ。

でもね、こういうのを批判することは簡単。人の行動なんて、いくらでも説明がつけられる。

今、日常しかない世界に、みんないるんだよ。逸脱が許されない。日常のルールが適用される。蕩尽(とうじん)でさえも、日常で行わなければならない。お店やイベント、遊園地でね。貨幣と引き換えに。それじゃ、取引であって蕩尽とは言わないよ。

そんな日常から出られない人々が、いろいろな手段を用いた結果だと思うよ。

人を傷つけたくない。まして自分も傷つきたくない。

そんな世界で自分のカオスと闘うことに必死なんだよ。みんな。

デバイスを使って、言葉を変えて。

パワースポットブーム

パワースポットとかもね。カタカナにしちゃう時点でサブカルです。軽く、いなすんですよ。重い物を。

小松和彦も20年くらい前のブームで行っていましたけどね。うかつに近づくところではない。

パワースポットというものは、そもそもこの世とあの世のあわいの場所ですよ。

半分別世界なわけです。

それで、修験者が世俗を顧みず、別世界に入り込む。そうして、修業して、戻ってくる。

胎内回帰といいますか、一度、儀礼的にはこの世からいなくなり、別世界に身を置き、そうして魂をよみがえらせて再び俗世に戻るという、相当な荒業なんですよ。

ダイブですから。賭けにほかなりません。

運気を上げたくて、行く方がほとんどでしょうが、パワースポットというものは、逆に、運気が上がっている人ならさらに上がるものなんじゃないでしょうか。

逆の人は、まさしく修験者並みのお覚悟を伴わねばならない気がしますよ。

個人的に、神社仏閣は、参拝すれば十分ですよ。

社殿の前で、お賽銭を投げて、心静かに手を合わせる。

せいぜい、お守りを授与してもらう。

それで十分、十分なようにできているんですよ。

そうして、1000年も続いたのですから。

自分を信じる。
自分の意志を信じる。
信じきれないところを神仏に補ってもらう。

昨今の参拝時の方法などは、宗教者の形ですよ。そして普通の人々は宗教者ではないのですから。

形よりも心がけということですよ。

なんか、まじめになってしまいました。

かつて、神職をしていたときの名残でしょうか。

サブカルの話でした。

自分本位の参拝

神域に入るその入口からして、サブカルチャーにしてしまう。そのようにして神社とかかわる行為は、どこまで行ってもサブカルチャー扱いになる。つまり、自分の楽しみや快楽の手段としての参拝ね。そこでは、もはや「参拝」の本義は薄れ、イベントに参加するという感覚になっていますね。イベントに行くのと脳の反応部位が変わらないと思うよ。

でも、それは昔も今も同じ気がします。

今は、多少、昔に比べれば個が強まって来ていますから。外界との接触を「イベント」というカタカナ語で軽くして、共同体が背負ってくれていたものを負うために。またはかわすために。

行事や出来事でもまだ重い。周りを軽く保つために、外界のものを、相対的に、薄く、軽くする。そのためには、「参拝」などと言う言葉を上面を滑らせるようにしか使わずに済ませなければならない。

神社はイベントスペースだよね。大方の人の心理、気分は。

それに応じて、神社も変わる。「わびさび」と言ったところで、それさえ、近代のイメージもあるでしょうし。

人びとの批判をしても始まらない。応じないと。「共同体から、個へ」ですよ。

縁結びで有名になった「東京大神宮」は、ノベルティグッズを作っています。ちなみに、私が見せてもらったのは、クリアファイルとミニうちわでした。キャラクターグッズじゃないですか。

太宰府天満宮の「お守り授与所」は、ミュージアムショップさながらにリニューアルしました。巫女さんが立っていますが、コスプレにしか見えません。

まあ、太宰府天満宮の場合、アートの発信に力を入れているのと、宮司さんが現代美術の収集をなさっていると、そういう事もあるのかもしれません。

さすがに、神社はカタカナにしないでしょうけど。

ローマ字にはするかもね。Jin!Ja!

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