【民俗学漫談】蕩尽のバリエーション*ハロウィン
蕩尽とは
蕩尽(とうじん)。民俗学のキーワードの一つです。むしろ民族学かもしれません。
浪費の事なんですが、浪費だと、無駄遣いという意味ですね。ほしいままに費やす。ちょっと弱い。浪費家なんていう言葉もあるくらいで、まだ、日常や人間の域を出ない。
蕩尽だと、これはもう湯水のごとく使い果たす、と言う意味で、明日の事を考えていません。動物的です。秩序を人間を飛び出す行為です。
まあ、動物は蕩尽をしませんが。
明日の事を考えないというのは、みんなあまり経験がないかもしれませんが、過去の否定ですね。
過去があるから今があって、明日に向かう。
明日の事を考えないというのは、過去の否定です。過去の秩序を否定するために、明日を考えない蕩尽をするんですね。
人は、一日に無数の願いをしているのであって、放っておくと、見えない物が見えないところに積もってゆきます。
それがケガレ。
気が枯れる、ということです。
カーニバル
自力ではどうにもしんどくなると、通常のやり方以外の事をします。それが祝祭です。
祝祭によって、通常とは別の事をする。大事なものを捨てるか壊す。上下関係をひっくり返す。異性の服を着る、などなど。
あの、自分の性別が女性だと思っていないのに、女性の服を着るという趣味がありますよね。あれは、一人でカーニバルを敢行しているんですよ。日常に積もったものを打破するために。そういう行為です。
ちょっと、わかりづらいですか。
ハロウィン
ああ、ハロウィンが、そうですね。仮装は別の存在になる行為です。
自分を隠すというよりも、別の存在になる。
一時的に、自分の存在を否定して、別のものになり替わる。
一時的に日常の法則を中断します。カーニバルの原則です。
そうして、祝祭が終わると、再び自分に戻るんですが、その時の自分は昨日までの自分ではありません。
生まれたてです。
ほやほやです。
なんか、祭りとかにけっこう本気で参加した後、ちょっとだるいじゃないですか。
あのだるさ。風呂から上った後のような、海から上がった後のような、ようわからん、だるさ。
あれ、ちょっと生まれ変わっているんですよ。今度ハロウィンに加わる人は、それ、意識してみてください。
あっ、生まれ変わっているな、ほやほやたな。と。
感じられるはずです。
ちなみに、ハロウィンはもともと、古代ヨーロッパの地域で10月末を一年の境目としていた時代、日本でいうところのマレビトのような存在を迎えて送り出した儀礼のはずで、小児が『トリック・オア・トリート!』なる魔術的な言葉を吐くのはその名残ですよ。
大人までもがそろって、この世ならざるものに仮装して、百鬼夜行のごとくに練り歩くのもあの世のものの来訪を示しているわけです。
現在、50歳くらいの人が大学生だったころ、渋谷で仮装行列をやるから参加してくれという話を受けたということもありました。
おそらくは、代理店が持ち上げた話でしょうが。
しかし、カメラがなかったら、人は、果たして、ばかな買い物やばかな行為をするのでしょうか、という話があります。カメラがあるから、出来事(イベント)を起こし、記念に仕立て上げる。
少なくとも、カメラに収めるために仮装をして騒ぐというのは蕩尽になっていません。
ただの七五三レベルの記念撮影ですよ。
その姿に参加者は気づいているのでしょうか。
カメラが欲望を拡大するのか
もしカメラやビデオがなかったら、そこに行くだろうか。それを食べるだろうか。それを買うのだろうか。
人が狂ったことをするのは、その場の権力、次に財力です。昔の貴族やブルジョワがそうですね。
記録するということは、一つの達成感なのか。本当に、単なる思い出作りのためなのか。
思い出作りというよりは、所有欲、その時その場の権力者になった感覚がそうさせる。
その時の興奮で記録をするのか。記録する手段を持っているから、興奮状態になり、やるのか。
恐らく、もう一段階突き抜けた傲慢がそうさせる。
十分に権力をふるって、人も物も所有の感覚で扱っている、つまりは自分の欲望の対象として扱っている、その異様な興奮が、更なる追い打ちとして、記録する行為に走らせるのではないか。
限界まで、自分の権能を確かめようとする異様な欲望が、カメラを持ち出すのではないか。
個人が持つカメラは、より一層、欲望の肥大化をもたらしたということです。
その行為は、蕩尽でもなければ祭りでもない。程度の差でしかない狂気ということにになります。
伝統の変化
今の祭りは、形骸化してしまっています。儀礼だけが残って、祝祭的なものが薄らいでしまいました。
なんて、言われていますが、祭も時代に即したものに変わってきているだけです。
伝統と言ったって、じゃあ、30年前、50年前はそうやっていたかもしれないけれど、百年前は本当にやっていたの? というものも少なくないんですよ。
今の人間が、今の感覚で、伝統というものはこういうものだ。だから、守っていかなきゃいけない。と、既得権者が、他人を従えるための方便に使われがちですね。
伝統とか。抽象的で便利な言葉ですからね。将来とか。自由とか。人生とか。
生き残っている言葉ってのは、便利な言葉なんですよ。
伝統というのは、祭を存続させる理由なんですね。
伝統が大事というのは、理由として大事ということです。
大事なのは、共同体の方です。
共同体の存続のためです。
共同体というものも、人間が存続させている以上は、メンテナンスが必要になってきます。なにしろ、情念のメリーゴーラウンドですから。共同体は。めぐるうちに、ケガレが積もってゆきます。
それをクリアーにするための装置が祭りであり、祝祭、カーニバルなんですね。
さっき、伝統の話をしましたけど、伝統も、時代に即したものに移ろいます。
「伝統を守れ」と言うにしても、どの辺までさかのぼるのか。
変わらぬ伝統なんて、存在しません。伝統は混合物です。ブレンドしてます。
その時その時の社会状況と個人の気分によって、ちょっとずつ、ちょっとずつ、確かめつつ変えてきたものなんですね。
人間が変わらずにはすまないのとおんなじです。
個性は、変わらないかもしれないが、能力や、その能力の見せ方は変わってゆくものです。
祭りの行われる時間
今の祭りの感覚は、前夜祭ですね。本番は翌日にやります。
夜は神の時間とか言う話もあって、本当は夜中に祭をしていたんですけどね。今は参加者と言うより、消費者ですから、本気で夜中にやっても見えませんから。
昔は、日没から祭りの開始でした。祭りの日の開始としての夜です。
ただ、祭りと言っても、昔は、祭=カーニバル。今は、祭=祭儀+縁日のイメージになっています。カーニバルが薄まっています。民衆から見た場合ですよ。
民俗学は、民衆視点ですから。
昔は、夜中に祭儀が行われたいた。宮廷では。村の祭りもたぶん夜中に祭儀が行われていた。
宮廷の祭儀は、ケガレをはらい、秩序を安定させるためのもの。秩序が崩れたなら、元の秩序に戻そうとするための物でありました。
それだけ。祝祭はない。富裕層ですからね。カーニバルをして、自分たちの秩序を破壊する気はないんですよ。
村の祭り。祭儀があって、夜中にやる。規模は小さいが、共同体の存続にためにやる。より土俗的なやり方で。そこでは蕩尽や反秩序が行わます。再び村を一年間持たせるために。
現代は、お祭りっていうと、だいたい、夕方くらいから縁日が出始めて、翌日の夜くらいまでやっている感じですよね。二日間。
再びハロウィン
またハロウィンの話ですが、ハロウィンは、祭りの機能から、カーニバルだけすっぱ抜いているので、騒ぐだけ、夜だけです。
本来は翌日に祭が行われていました。この時期ですから、収穫祭的な祭です。
ケルト人の祭りだったみたいですね。
それが、ケルト人がキリスト教に改宗する。でも、祭りは外せない。しょうがないと言って、キリスト教の聖人の日を持ってくる。いつものパターンですね。しかし、適当な聖人はいない。使い切ってしまった。で、「諸聖人の日」という、お彼岸手的な日を設定しましたんですが、アメリカに行って、日本に来たら、すっかり祭りの本番が消えて、前夜祭だけが残ったというクリスマス以上のケースですね。
ハロウィンは、WEB時代の都市のカーニバルとしてふさわしいでしょう。日を決めて繁華街を混乱させるんですから。仮装でも女装でもしたらいいんですよ。
祭りの分業化
ハロウィンが祭りから祭儀をなくして、カーニバルだけにしてしまったように、現代は、祭も分業化されています。
お祭りと言うと、縁日が付き物ですね。縁日は、少なくとも江戸時代からあります。
カーニバルを縮小した感じですね。
商店街などでも、縁日的なことをやっていますが。
日常から離れる行為です。
普段は着ない浴衣を着る。いつもは家にいる時間に外にいる。普段の晩御飯とは違うものを食べて飲んで、つい、意味不明の物を買ってしまう。
私、こどもの頃、縁日で、なぜか包丁を買ったことがあります。
使わないし、うち、魚屋なので、包丁はたくさんあるんですよね。
それなのに、縁日で、素人が使うような包丁を買ってしまう。
蕩尽ですね。
現代の蕩尽
で、現代の文明で、本気の蕩尽を共同体レベルでやると崩壊してしまいますから、日常的に小さな蕩尽が行われるわけです。個々人で。そこは個人に任されていますね。
観光でも遊びに行くのでも、カラオケでも、ちょっとした蕩尽なんですよ。ちょっとやってみて、隙あらば「よみがえろう」としているんですよ。
アミューズメントパークがありますね。あれも一つのケガレからの黄泉がえり施設でしょう。
だから周りを囲まれていて、外界、現世から隔離しています。
観覧車もないし、ジェットコースターは、屋内だし、シンデレラ城にのぼって、天下を一望するなんて言うはしゃぎ方もできないようになっているんです。
観光地には、神社や寺があるところが多いですね。それは、宗教施設ができて、そこに人々がお参りするようになると、お店を出して、稼ぐ人々が出てくるからなんです。それが観光化ということですね。
今は、エンターテイメントや各種の遊びが祝祭の代わりを疑似的にしているから、祝祭が必要でなくなくなっていますね。そもそも祝祭自体が人工的に非日常をつくりだすものですし。
意図せずに、非日常に入り込みたくはないんですよ。トワイライトゾーンに。
意図して日常から脱して、日常のこまごました情念を振り切りたい。
その装置ですね。先回りするわけですよ。自分で。エンターテイメントは、漫画や映画も含めて。そこでは、普段は決して味わえないような人の行為を見て、感情を移入して、カタルシスを起こすわけなんですよ。
人は、日常生活で、いきなりマイク持って歌いだしたり、踊りだしたりしませんよね。浮き浮きしながら、周りをきょろきょろしたりとか。
それが、アミューズメント施設の門をくぐると、可能になるんです。日常からの逸脱のスタートです。そこでは日常の法則が停止するので、なぜ歌手でもないのに歌うんだ、とか、なぜ任務でもないのに遠くに行くのか、とか、なぜ、背中にチャックがある着ぐるみと写真を撮って感激するのか、そういうことを問うのは、全く見当違いです。
すでに日常から逸脱していますから、日常の法則を適用しようとしてはいけません。
人はそれでいい。しかし共同体のケガレは。
わたしは、日常からの逸脱が苦手なんですよ。遊びにも行かないし、取材か修行以外で旅行をしないし。
飲みに行っても、仕事の話をしていますから。
まあ、旅行でも必要以上の買い物も、軽い蕩尽ですよ。
むしろ、旅行、特に一人旅なんてのは、蕩尽であることをわきまえた上で行ったらいいですよ。
『これは蕩尽なんだ』と、言い聞かせるわけです。
何かを得ようとしたり、神社などで願掛けに行ったりとか、そういう目的意識を持つのではなく、ただ行くだけ。
意味づけ、根拠づけ、言説化したがる近代的理性の志向の体質から解放するわけです。
自分を。
こじつけや、独りよがりから解き放つわけです。
人々は制度が確固となるほど無意識で抑圧されますから、また同時にそうした近代的理性で、この世の混沌にも堪え切れませんからね、常に中腰で蕩尽の機会を見出しているわけです。
そこに、テレビでも雑誌でもネットでも、旅行やはやりものやグッズを紹介する。
それを見て、『チャンス!』と立ち上がるわけです。
中腰から。
行けば満足、お金を使えば満足するわけです。
それは経験したという満足の裡に蕩尽の快楽が潜んでいるんいるんですね。
ビールかけ
プロ野球の優勝が決まる時期ですが、決まった後に祝勝会場でビールかけしますね。
乾杯のあいさつ以外は、ビールかけしかないイベントと化していますが。
現代では、あれが蕩尽の見本ですね。あの程度と言うことでもあります。
別にかけたいのなら、炭酸水でも、水でもいいんじゃないかと思うかもしれませんが、ビールだから蕩尽になるんですよ。
人類の主食の一つである大麦を発芽させて作ったビール。栄養もあります。収穫の時は、神に感謝もします。
ビールを作ったのは、シュメール人らしいですね。またシュメールですか。この漫談に何回出てくるんでしょう。そのシュメール人、六千年前にはビールを作っていました。
さらに、古代のケルト人やゲルマン人にとっては、祭りの日のための飲み物でした。
そのビールを湯水のごとく使い果たすから蕩尽になるんです。
そこで一年のケガレが消えるんですよ。
優勝という、尋常ではない結果を得たら、相応の蕩尽をしなければ、共同体、この場合は、球団ですが、球団にケガレが積もってままならなくなるんですよ。
あの場で、水を湯水のごとく使ったって仕方ないんですよ。
毎年、「ビールかけはやめた方がいい」と言う方がいます。
蕩尽の必要性から見れば、的外れです。
優勝しました。嬉しいです。乾杯。ありがとうございました。じゃ済まないんですよ。肉体ではなくて、精神が。人間の精神は、そんなに健全でも合理的でもありませんから。
反対する方は、もっともらしい理由、たとえば、生活が苦しい人の事を言いますが、それなら所得税率を昭和50年ごろ以前に戻すとか、かつて橋本治が言っていたように貯金に税金をかけるとか、そうして再分配すればいいと思いますがね。「ビールかけ」うんぬんと言う方は、それは言いませんね。
何でもない夢が楽しいと感じる場合、そこがほぼ不老の世界であることにないだろうか。
明日を患わなくて済む世界だからでしょう。
収穫ですよ。
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