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【民俗学漫談】デザイン

デザインとは

今回の漫談は、デザインです。

物には、何でもデザインがあります。お椀でもお盆でも。道具でも衣装でも建物でも。

デザインは、まず、機能性。機能を引き出すためのデザインがありますね。続いて、装飾。飾り付けですね。

見やすさ、伝わりやすさばかりではなく、デザインによって、物を使いやすくする。

これは、どう使うべきなのか。

見てわかるものが優れたデザインという事になります。

デザインはラテン語で区画して描く、印をつける。というのが語源ですが、区画して描くということからすれば、物がもっている情報をどう割振りするのかがデザインという事になります。

例えば、電化製品でも、何か飛び出ているボタンがあれば、それは電源スイッチではないか、と思いますね。

今のi-macのように、知らないと、電源ボタンがどこにあるの判らないようなものもありますが。あれは、精神性をいれこんでいますので、別の話です。

デザイナーは、(自己)表現をしているに過ぎないものを作るのではなく、その物に接する人とのコミュニケーションになっているか。

デザインは、隠れているものを示すものなんですよ。または、示しえない物を示すこと。使いやすいデザインと言うのも、どこをどう使ったらいいのか、その見えない物を見えるようにするという事ですね。

形ではなく、機能や意味です。

神社のデザイン

神社のデザインも、そこに何かいるはずだと、というのを人々に知らせるためにある。デザインですので人工的ですね。

その形が、何かを示しているんですよ。

鳥居が、瑞垣が、手水舎が、玉砂利が、神殿が聖なるものの存在を示している。自立した聖なる世界。同じ空間ではない中心。

神殿でも、鳥居でも、細部が全体をコントロールしています。

ことごとく、聖地であることへの配慮が働いていて、環境形成をしているんですね。

世俗に穢(けが)れた魂が鳥居をくぐり、玉砂利を踏みながら、中心へ向かう。玉砂利を一歩踏むごとに俗から離れてゆく。

手水舎で禊(みそぎ)をして、神殿で神に近付く。すでに俗なるものではなくなっています。参拝を済ませて、再び玉砂利を踏みながら、鳥居から出てくる。

そのときに魂はよみがえるんですよ。

黄泉(よみ)からかえってくるから、よみがえり。

胎内回帰とも言われます。

神社で、柏手を打ちますよね。

あれ、何をしているのかと言うと、場を浄めているわけです。

柏手には場を浄める効果があるんです。

個人的には、神社は「お願いをする」場と言うより、「よみがえり」の場だと考えています。

一度、自分を捨てて、再び生まれ変わる。

本来は、修行をして、水に潜って、再び浮上するのが復活ですが、それをデザインの上から構築し直したのが、宗教施設なんですね。

神社のパーツはそのためにデザインされています。

だから、境内には、普通、駐車場はないし、民家もないし、広告もないんです。

デザインの引き出す力

機能から言ったら意味のない部分もありますよ。縄文土器と同じで。

でもね、もともとデザインは、その物、その場から立ち現われてくる何かをあらわそうしたはずなんです。言葉ができる前の段階で。そこには、「呪(しゅ)」が込められている。それがもともと持つ力、太古の人びとが感じた言い知れぬ力をこの世界に現そうとしたんでしょうね。

そのデザインを受け継いできたわけですよ。宗教は。年中行事は。

祭祀における構造は、議会だったり、コンサートだったり、講演だったり、いまも、いろいろなところで利用されています。

そこには、「示す」という機能が働くからです。デザインを変えれば、機能も変わってしまいます。

大学であい変らず講義形式が行われているのは、立場の違いを示す習慣からでしょうね。先生方はディスカッションできる部屋を増やしてもらいたがっていますが。

神社ってのは、荘厳だったり、わびさびのデザインはありますが、退廃的な気分にはなりませんね。

夜のデザイン

現代都市にあるデザインって、夜しかないって感じがします。朝が来ることを考えていない若者のような。ネオンでも、サイケでも。朝の光には耐えられないよね。若者はそういうものなのでしょうが。

おもしろい、かっこいい、ユニーク。

共感の時代とか言われているけど、共感するのも疲れませんかね。

明らかに、共感するでしょ、っていうものを示されて。

夜の夢? 夜じゃないとだまされないんですよ。

青空の下なら、要らない物ばかりだけど、いつでも青空じゃないからね。文明国の人びとは。

その点、神社のデザインは、昼間はわびさび、夜は畏怖と、リバーシブル仕様になっています。

昔のデザインは、無駄がありません。

無駄が多いという事は、刹那的にまだまだ世の中を甘く見ているときです。そのエネルギーが迷走すると、不安を刺激で洗い流すようなことをしてますよね。エンターテイメントは。特に電力を使うものは。

装飾の力は超自然に向けたものですが、電力を使用した人工的な光による目くるめきは、この世のものに向けられています。

何でも光らせれば、ロマンチックで魅力的になるというわけでもないと思いますが。

浮世絵の画稿を見れば、漫画のネームそっくりであるし、浮世絵も、人物そのままで衣装だけ変えたり人物に別の絵師が書いた風景を合わせてするのを見ると今のレイヤーや差分を思い出す。
広重の風景に国貞の美人画を置いたりとか。

日本の建築も彫刻も仏教が入って来てからの発展だとしたら、もともと日本人には絵画表現の指向はあっても、立体物、現実の形を伴って、長く存続するような物を大事とする考えは比較的薄かったのではないか。

太古、神社は祭りが終われば、壊していたはず。

それが仏教寺院の影響で、派手な装飾をするようになったのかどうか、もっとほかの原因があるのか。

縄文土器は、呪術性が高いデザインをしていますが、弥生式土器になると、装飾が薄くなる。急に現実的な人間になったようです。

合理的になったのでしょうか。

差異化のためのデザイン

しかし、デザインは商品に差異を作るためにするようなもの、つまり面白味を付加するようなものでも、まして宣伝=プロパガンダの手法になるものでもなく、人々がなるべく自然にそのものを使えるようにすべきものではなかろうか。

実際に身に着けるファッションはまた少し違うのだけれど、商品にしても、メディア上の広告宣伝、それが個人的なものであれ、ほとんどあらゆる対象をデジタル機器を通して、作り出され、また、広告される。

元がアナログで作られたものでさえ、デジタルを通して複製されてしまう。

それはほとんど複製といっていいものであり、その違いなど、一歩引いた冷静な頭なら、何が違うのかといえば、『違うから違う』としか思えないようなものが次々と並べられる。悲壮なまでに、個性というより、差異化を求めて、同じ次元のものが次々と代わる代わるに表現される。より一層平坦で均質化されたセンスのものが並べられる。

雑貨店などに入ると、面白味のある文房具が並んでいるが、ふとした瞬間、それが、小学校の教室の後ろに並んだ絵や工作物に見立てられるような、はっとするときがある。

もしくは、書籍などでもたまに見受けられるが、かつての少年漫画誌の読者投稿欄のようなものが流通する。

それを楽しむには、ノリでごまかすしかありません。

商品の物質性というものが欠けているような気がすると言いますか、何というか、デザインを示すために物を利用しているような逆転現象が起きているように見えるんですよ。

物質性が薄まれば、イメージは次々と変えられますから。

そのものにもはや意味はない。イメージを感じられ、手にし、さらにはSNSで瞬時にそのイメージは伝達される。

物から意味をなくし、表現だけを示し、それを購入させる。

何という軽やかさでしょうか。何も重荷になりません。物を買い、手にすることが。

後はもう気分に応じてイメージを購入する。作る側も、デザイン以外の分野から過去も含めて次々と表現だけを拾い上げて脈絡のない物や場所に張り付ける。ペーストするわけですよ。

カット&ペーストです。[Ctrl] +「X」ですわ。

そうして、物だけではありません。観光地でも、都市空間でも、きらびやかなだけで、歴史性や伝統の薄い、もしくは全くない飾りや光のページェントが張り付けられるわけですよ。

デザイナーが軽々と商品を広告するために、物のリアリティを消し去るのではなく、すでに物からリアリティが失せているのを知らず、それはもしかしたら物心ついた時から状況がそうなっているためにそれが自然状態と感じているのかもしれないが、リアリティが失せているのを知らずに、物のイメージを取り換えてしまうようなことをしているのではないか。

しかし、今はその方が受けるわけです。

受け手も同じ感性を共有しているわけですから。

個人的な趣味で、工業製品はモダンデザイン、飲食物をはじめとしたパッケージは、少し古めのものが、何より、物としてのごろっとした物質感がある気がします。

そういう趣味嗜好の持ち主から見ると、物質感のないデザインはただのポスターをペーストしているように見えてしまうという話です。

たとえば、日本酒のラベルはありがちにお酒の名前を筆で大書きしたものに和紙、縮緬紙ならなおさら結構ですが、そういうものを好みますが、よく考えたら、こういう趣味嗜好こそ、文化というものに趣味嗜好が完全にコントロールされているという表れですよね。意外と保守的なんですよ。

物がどのような外観を持っていたらしっくりくるのか、それが一番な気がしますが、文化から解放されたらものすごく楽になる気がする。そういう誘惑。

日本にいるお金持ちの外国人は文化の抑圧を受けずに購買活動をしているわけです。

それをうらやましいと思う感覚は、『楽になりたい』からなんですよ。

貨幣という共通の価値観を持ち、成功の基準が今の市場での活躍となり、それがわかりやすく、収入、ということに一元化されていくありさまで、サラリーマンでさえ、収入によって、その仕事の意義がなんだか納得されるものとなってしまう。

デザインも市場での成功を目指すことは今も昔も変わりませんが、昔は、商品が違うことをアピールするための物であったのに今や、極端に言えば『パッケージが違う』というアピールをしているようにも見えまず。

『がわ』が違うんだから、これは違う商品、新しい標品なのですよ、というアピールですね。

消費者もせっかくだからノッていきたいわけです。

そうして都市でさえも『がわ』を延々と作り替えるような状態となる。

デザインは人々の生活様式を改善することを放棄し、ただ、より便利ならまだしも、より違いますということのために奉仕している状態で、それはもうただのセンスの競り合いとなり、奇妙な珍品が増えていくというわけです。

新しさが、着せ替えに過ぎない。

これはデザインに限った話ではありません。

逆に言えば、『着せ替え』の能力を磨くことでクリエイティブなことができるということです。

才能に自信がないけれど、なにかを作り仕事をしたいと思っている人は、『着せ替え』の能力を磨いてはどうでしょうか。

もしくは過去のクリエイターがどのようにして『着せ替え』をしてきたかを研究してみることです。


文学や絵画ではなく、建築や広告、モードの方に注目すれば、そこにこそ抑圧された時代の無意識が表出する。
その時代の装飾とはどのようなものか。構造とはどのようなものか。

時代の無意識たるコルセットを外す。
しかしそれは目覚めたつもりでまだ夢の中にいる。
時代が覚醒するのは、戦争という機能主義の全的勝利によって。
機能美に向けて吹っ切れた。

自分が時代についていけないのか、時代が、抑圧されたものが猖獗を極めているのか。
それなら、抑圧されたものの表れは、どこにあるのかを見抜けたらいい。
建築。広告。モード。
建築は、より機能的、合理的なものが進む中、空間構造に無駄を取り、それが装飾となっている。
もしくは、構造は前時代からの鉄骨。装飾に本来の構造物である木を使ってしまっている。
いずれにせよ、シンプルな装飾といえる。
本来、構造体に使うべきガラスと鉄を装飾に使ってしまった。
アールデコも幾何学模様を装飾として使った。
幾何学模様は、本来、意味のある図形だった。
そもそも文様は、それなりに呪術的なものを含まれていたが、デザインはその意味だけを持ち至

広告は、装飾はこれはAfterEffectを用いたCG、さらにはより、商品から離れたイメージ広告。
本でいえば、売り文句は『役に立つということ』人生訓だけではなく、文学も『感動しまっせ』と売りに出す。
構造はデジタルメディア。複製可能。
いくらでも再生産可能。
モードは、個性化を諦めたかのようなファストファッション。
装飾はないといってもいいくらい。
労働着と日常着の区別がどんどんなくなっている。
こちらも機能重視の服であれば、『着る人を選ばない』から、いくらでも再生産可能。
機能主義の勝利がライフスタイル全体に広まっている。

建築が評価されるのは、合理一辺倒ではなく、装飾を重視しているからではないか。
しかし、それはまだ夢の中にいたいのか。
それとも、行き過ぎた機能主義、合理主義の夢から醒めたがっているのか。

機能主義は間違ってはいない。
しかし、装飾がない世界に人は堪えきれない。

広告はより見ないようになっている。
WEB広告、Youtubeが広告をうっとうしいものとして人々の脳に定着させてしまった。


文京区教育センターにて、鶏の民俗学的な展示がありました。

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縁起物や玩具としてデザインされているわけです。

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