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【民俗学漫談】内と外について

神社って、柵がありますよね。敷地を囲って。

ちなみに、神社に門はありません。本来。

明治神宮とか、大きな神社は門があって、営業時間が過ぎれば閉めてしまいますね。明治神宮はそもそも森を作ったわけですから、そうなりますね。

昔、どこの教会でしたか、「正月に休業」的な張り紙がしてあったのを見て、驚きました。いや、「正月に営業しろ」と言う話ではなく、教会って、すべての人々の家なわけでしょう? 民家じゃないでしょ。何で鍵がかかってんの。常駐していろとは言わないけれど。

それもこれも、現代の宗教の限界を示していますよね。

宗教者である自分たちの日常を崩さずに、信仰なり儀礼を執り行なわざるを得ない。

神社にしても、はたから見れば、ただのイベント会場と化すのは致し方ないことかもしれません。

神社という境界


で、神社には、柵はあるのに、門はない。鳥居はある。これなんでだと思いますか。

教会のように、すべての人々の家である。いつでも苦しくなったら、逃げ込んでいい。という話ではありません。

朝に開けておくのは、参拝者のためですね。

では、夜に開けておくのは?

神のため。

かみは、夜に行動するんですよ。

出歩くんですね。

人びとが寝静まった後に。

夜は神の時間なんですよ。

私は、明治神宮で修業した時に、夜も修行の時間があったんですがね。参道の真ん中は歩いてはいけないと言われました。神様の通り道だから。

昼間だって、同じことなんですが、夜の参道はしゃれにならない。

明治神宮と言う比較的新しい神社でさえ、そうですからね。

何時からあるかわからないような神社の夜は、しゃれになりません。

もちろん、夜に神社に用がある人の方もいますね。

聞いた話ですが、とある北陸の方に「丑の刻参り」で有名な神社がある。で、そこの人に聞いたら、やっぱり、朝に、二三体、木に刺さっているらしいですけどね。現代の話ですよ。

こう言う事は、昼にやっても仕方がない。昼にやると、ただのイベントになります。

夜にやる。夜は神の時間。自分も、あいまいな存在になるリスクを気にせずに、念を晴らす。そういう状況ですね。

念を込めるのにも、その辺でやるのではなく、神社と言う舞台が必要になってきます。

何で、神社でやるか。

神社は、「非日常」、「別の世界」、つまり「外」なんですよ。

呪(しゅ)を行うにしても、自分の内、自分の生活空間でやったら、危ないし、なにより、別の世界に出向いて行うから、超常現象を引き起こせる。通常の手続きでは念をとげられない。では、リスクを承知で出向く。昼間の神社ではなく、夜の神社へ。

そういう信仰があります。

それが成り立つのは、神社が別の世界であるという事と、夜は人の時間ではないという事、そういう考えに基づいているんですね。

鳥居とは


神社にある柵を「瑞垣(みずがき)」などと呼びます。柵の役割ですが、むしろ、霊的な柵の役割なんですよ。

それの最たるものか鳥居ですね。

この字は、何でこの字をあてるのか、わかりません。

この鳥居、これは門なんですね。空きっぱなしの門です。物理的には。

しかし、霊的には門なんですよ。

いつでも、邪悪なものは入ってはならぬ、と示しているのがこの鳥居というものです。

ここから先は聖なる神域だ。と。

あとは、内と外の関係で言えば、鳥居は別の世界との境界に立っていますね。今のように立派なコンクリートや軽量プラスチック、今もある柱で立てた物の前は、木の枝や草を編んで作ったものもあるでしょう。

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ここから先は別の世界ですよ。いいんですか。と、人と人以外に示しているんですね。

それであればこそ、神社では日常の水平線上では願えないことを願ったり、現世にはとてもおいておけないようなものを持ち込むわけです。

本当は、遠くに持っていきたいのだけれど、半端な距離では「内」も同然だ。「内」に捨てても、捨てたことにはならない。

神社は「内」にある「外」と言うわけです。

昔の人たちの「外」と言う意識は、一つには、自分たちの世界と直接のつながりのない世界、と言う感覚があり、それは、距離的なもので示されるものでした。

だから、普段立ち入れない場も外なんですね。

それで、外は外である標(しるし)をつけておく。

私が、伊勢神宮で修業したときのことですが、伊勢神宮は行けばわかりますが、中が見えません。神殿というか、本殿が。正殿が。四重の板垣がめぐらせてあります。

修業のことは、こちらの方で、フィクションとして書いています。


見えてはいけない。見えないから保たれるものがある。と言うわけです。

私は、修行で行きましたので、その中に入って修行でした。

その場は、世界であって、世界でない。そこの空気も風も、組成としては駅前と大した変わらない。

しかし、空間として全く違うんですよ。

同じ空間に存在していない。別の空間。

これを人為的に作り出すのが、瑞垣であり、鳥居なんですね。

「場」の構造に変化がなければ同等ものということになりますから、構造を変えるわけなんです。

祭りは日常の場では行われない。
祭りは、日常とは別の空間で行うものなのです。

例えば、いきなり飛びますが、スペインの牛追い祭り。七月の上旬にやるみたいですが、街中でやります。日常の場ですよね。何が別の世界なのだ、と。

ここで、時間的「外」が来ます。

七月上旬。正確ではありませんが、これは夏至の祭りだと思われます。

夏至。太陽が真上から差し、影が無くなる。日がいつまでも沈まない日。

こういう日は、別世界との境があいまいになるんですよ。

クリスマスは、冬至の祭りですね。

冬至。夜の長い日。日の最も弱くなる日。しかし、冬至を境に太陽はよみがえるわけです。

夏至も冬至も時間的な境界線なんです。

祭りは空間的別次元、大晦日は時間的別次元という事です。

そこで日本に戻って、「春日若宮おん祭」。

すごく簡単に言うと、冬至も近い真夜中に、闇の中を神様が出歩くんですね。

冬至は一年の裂け目。そこで別世界との回路が開きやすくなる。

神社から出て、「御旅所」と呼ばれるところまで行って帰ってくる。

「暗闇での行幸」と、日本の神の特徴を表した神事ですね。

祭りは、特別な空間と特別な時間の下で、俗なる時から聖なる時への移行を示し、創造神話を再びよみがえらせるわけなんです。

祭りは記念日、誕生祭ではなく、その始まりの場の再現なんです。

都を移しかえるのも宇宙創造を再現しているんじゃないでしょうか。

お祓いについて

 
祀りを行う場合、お祓いをしますね。普段着で行けませんから。

通常のお祓いや祈祷と違って、夏と冬の二回。大祓(おおはらへ)と呼ばれる行事が行われます。六月三十日と十二月三十一日。新たな時へと移り変わる、その時ですよ。

大祓、いわゆる「祓」は、欠けたものを修復しているのではなく、完全に一からよみがえらせているんです。「祓」で無に帰し、榊の枝を手にし生命力を生き返らせ、祝詞によってその生き返った生命に祝福を与えている。

神主は何をしているのかと言うと、大祓詞(おおはらへことば)を奏上して、神話の空間を呼び出しているんです。神話が始まった場で。共同体が始まった場で。始まりの場所なんですね。神話や伝承が示している場と言うのは。そして、定期的にその場にかえり、再生させる。

それが装置としての祭りですね。

信仰は個人的なものですから。

大きな神社で相応のお金を払うと、巫女さんが出てきて踊ってくれます。見ているだけですが、ダンスと言うのも、元々は、日常と異なった異常な動きをすることにより、日常の法則を変え、別の世界との交流を果たそうと欲する所より来ています。

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