【民俗学漫談】神饌
食事でも場でもいちいち感謝するようになってきたのは、存外としよりということでしょうか。
ご飯を頂く前に手を合わせますね。
今回の漫談は、神饌(しんせん)です。お供え物ですね。
民俗学漫談のポリシーとして、細かいことを言っても仕方がない。
お供え物のバリエーションを伝えるのが目的ではなくて、お供え物とは、何なのか、それは、どういう行いなのか。ということを漫談します。
お供え物と神饌
みなさん、お供え物ってしたことありますか?
私は、大人になってからしていませんね。
神棚も仏壇もないし、お墓参りにも行ってないですね。
正確な場所を知りませんし。
こどもの頃は、近くにお地蔵様があって、もらったおやつとか、給食で食べきれなかったパンを置いておきましたね。
まあ、神棚に普通は普段の食べ物を供えませんね。
米塩酒、日本人にとって大事なもの。ですね。
あとは、榊(さかき)とお水くらいですか。
それに比べて、仏教系。お仏壇にお墓に、お地蔵さま。
こちらは、食べ物を備えますね。
仏教系の方が、身近で、人格を感じやすい。
そこから、食べ物を供えるということになる。
お地蔵様に衣装を着せたりしますよね。
抽象的な対象と見ていません。
食べ物を選ぶということ
今回は、そういうお供え物ではなくて、祭のときの「神饌(しんせん)」の方です。
神社って、普段は供え物と言っても、米塩酒くらいなんですが、お祭りのときは、盛大にやります。盛大に盛ります。
主食のほか、魚介類、野菜、お菓子を供える場合もあります。
お菓子といってもカルビーとかグリコとかじゃないですよ。干菓子とかそういうものです。
ここでは、共同体による、食品の選択が行われています。
もちろん、普段食べる物とは、ずれていますよ。
でも、手に入る限りの理想の食卓をそこにあらわしているんです。
何を食べるかは、その人の個性を作り上げますからね。
そこには、選択があるんです。
選択をするたびに脳は、少しずつ変化していきます。
当然、魚を選ぶか、肉を選ぶか。
どういう調理法をとるか。
どういう場で食べるか。
これが、個人はもとより、共同体のアイデンティティーを作り上げます。
栄養だけではない
近代の食事は、給食などもそうなんですが、食べ物を栄養で見過ぎてしまって、食品の持つ象徴的意味が薄らいでしまいました。
給食は、栄養の法則に基づいて献立が組まれる形式による表現方法です。
近代得意のリストですよね。食品リスト。栄養からみたバランスです。
世界のバランス、引いては、人としてのバランスを保つのも食事なはずです。
栄養が取れていればいい。おいしければいい。だけではないんですよ。食事は。
祭りの食事
祭りには、食事が付き物です。食べない祭りはありません。
何を食べるかは、共同体の個性が見えます。
神様にお供え物をする。その供えた物は、祭儀のあとに皆で食べます。
その皆の中には神様も含まれています。
神人共食と言う思想です。
神と人とが共に食う。です。
この神と人とが共に食うという構造を持っているのが宴会なんです。
本来の宴会は、神の加護の下、同一のメンバーで、同じ食卓を囲む、と言う構造を持っていました。
神とともに食べるという点では、食べ物の栄養だけではなく、霊力をいただくんです。
また、その場にいる神を含めてメンバーと食べるということは、結びつきを示します。
「同じ食卓を囲む」という行為は、仲間のしるしなんです。囲まないのは、その逆です。
そこに座っている人たちは、ふつう、皆同じものを食べる。神からの恵みを平等に分かち合う場、という事なんです。
昔、わたしが神主やっていたころ、出張で、埼玉の普段は神主がいない社に七五三で行ったんですけれどね、その時、町会の人たちと天重を食べたんですよ。お供え物じゃなんくて。わたしだけ特上でした。
神主は別扱いですか。
宴会で「無礼講」なんて言いますけどね。
宴会に参加し、同じ食卓を囲むということは、参加メンバーの平等性を示すということなんですね。同じものを食べたら、平等の感情が生まれるんですよ。
肉体的にも精神的にも、食べ物の摂取、もしくは摂取の状況にかかっています。人は。
調理済みのお供え物
祭りのときって、神饌って、調理してあるんですよ。
魚はおろすし、お米はたいておきます。
まあ、人が食べる状態とは違いますが。
調理するのは、神様がおいしく食べられるように。
じゃなくて、収穫や獲物を自然から、人間の世界に持ってくる。それを今度は、調理という人工の手段を用いることによって、神の世界へ放擲(ほうてき)する。すべて投げ出す。そういうことをしているんですよ。
供犠の超簡易版が、お賽銭ですね。だから、御賽銭は投げるんですよ。この世界から、別世界になげうつんですよ。
肉を供える
で、神饌ってのは、その土地によってバリエーションがいくらでもあるんですが、肉を供える所は少ないです。
定住した、農耕民族ですからね。だいたいは。
魚とって暮らしている人たちは、魚をメインにしますけど。
で、肉って、森に入らないととれないんですね。
祭りに使うような大きな獲物は。
で、そういう地域は、すでに、国家の中心から外れていたので、神道の儀式が広まらなかった。
大きなところは、今でも残っていますよ。
諏訪大社ですね。
で、諏訪大社は、場所から言って、朝廷の支配が緩い場所だったので、独自の神事が残ったのだと思います。
諏訪大社と言えば、鹿ですよ。
今は、剥製で我慢しているみたいですけどね、昔は、鹿を供えていました。
正確に言えは、鹿を屠(ほふ)って、供えていました。
神主の事を「はふり」なんて言いますね。漢字では祝り、と書くんですが、どうも、この「はふり」は、ほふりから来たんじゃないかと思います。中央の神官と別のルートと言うことです。
農耕が難しく、魚も取りづらく、そのうえ、森に獲物が豊富なら、とりますよね。
取ったら、まずは、神に犠牲として供すると。それが、「はふり」の役割。
そこは、蛙とか、兎とかじゃなくて、鹿クラスじゃないと。
なんといっても、お供え物は、もともとは、犠牲ですからね。
供犠(くぎ)ですよ。
犠牲を供えるわけです。
共同体の存続のために、正確に言うと、共同体のよみがえりのために、犠牲を神に差し出す。経済から言ったら、棄てると同じ事です。神に差し出すということは。
祭りのたびに共同体に役に立つものを神に差し出す。
これがお供え物のもともとの構造です。
弱った共同体をよみがえらせるためには、通常では禁止されていることをやるんです。
本来、殺してはいけない生き物を殺す。
大事なものを破壊する。
どこかで、禁止の破りの場を作らないと、労働にたえきれませんから。
今のように、エンターテイメントなんてありませんからね。
昂奮するには、禁止の破りしかなかったんですよ。昔は。
それが、「収穫祭」にって、その年の初物を神に差し出して、後に宴会の場で、皆でいただくという風習になったんですね。
ちなみに、わたしは、一人で食べる時は、肉は食べません。主に、豆腐と海藻を食べています。あと、貝とナッツ。
ところが、大勢で食べる時は、必ずと言っていいほど、肉を食べますね。
とりあえず、肉っていうものは、二人以上で食うものなんじゃないんでしょうか。
神饌に用いる火
調理には火が用いられます。火は、まず、調理のために使われました。
何十万年も前から。
神事で使う火は、まともなところなら、木で起こします。神聖な火、非日常の火でなければ、神に差し出す物には使えません。
対象物を変化させるのが目的なんですよ。
おいしく食べるのが目的ではないんですよ。供犠においては。
火を通せば、おいしいですけど、そうじゃない。生肉を食べないのは、自然の物をそのまま食ったら、自分も、自然の物と同一レベルになってしまうという恐怖からきています。生肉をくらうのは、ただの生理現象に他なりません。
動いている鹿にいきなりかみついて食っても、栄養はあるでしょうが、鹿と同レベルの世界の存在と認定されてしまいますね。
火によって、自然物を混沌から秩序の世界へ移行させているんです。
鹿と言えば春日大社ですが、春日大社は、藤原氏のお墓です。廟(びょう)ですね。平安時代にできたものですし、藤原氏は狩猟民ではないので、鹿を供えません。
ポトラッチ
供犠に似たような風習で、「ポトラッチ」があります。
北米先住民の間で、行われていたもので、ま、贈物をするんですけどね。
物を多く持っている者が、皆を招いて、そこで大盤振る舞いをする。
これは、神に対しての行為を人間に対して行っているんですよ。
彼らに神はいるんでしょうか。
いるにはいるんでしょうけど、ポトラッチが行われている地域は、宗教の制度が薄そうです。
現代人が、捨てるのもったいないからあげるとは違います。
自分の自慢のために、上げるというより、捨てるんです。
自分はこんな貴重なものを惜しむことがない。と。
過去を捨てるには、物を捨てればいいんですよ。物こそが、将来への保障なわけですから。
物こそが、その人のアイデンティティどころか、記憶も支えているんですよ。
ある程度の年齢になって、いきなり、身の回り物を一新すると、記憶がおかしくなるらしいです。
ポトラッチでも、祭儀でも、物っていうのは、過去の自分が将来のために手に入れたものですよ。それを蕩尽してしまう。ロック過ぎます。
自分にとって大事なもの、というより、後生大事に抱えている自分の欲望を支えているものを捨てる。黄泉がえりのために昔から行われてきた方法ですね。ポリュクラテスの指輪。
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