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【民俗学漫談】売れるものの集中

便利なメディア

小説が売れない。と。

全般的な話です。

小説が売れない、イコール、読まれない。と言うことにすると、まずは、今は、自分を表現する手段、自分の内面を探る手段が増えて、優秀な人たちが文学の側に入ってこなくなった、と言うのがあります。

サッカー人気で、野球をするこどもが減ったのと同じ現象です。

もう一つは、小説というメディアが、消費者から見て、「不便」なメディアになってしまった。

何が不便なのかと言うと、消費者は、貨幣を用いて、何をしたいのか。もちろん、物を手に入れる。同時に、自由を行使したいんですよ。

たいていの労働者、年金生活者、はてはIT企業の社長などのお金持ち、つまりほとんどの方々にとっては、貨幣を用いる時に、自由を感じられる。

「自分も、独立した一個の人間なんだ」と感じるんですよ。

自由を行為するからには、自分の感情を慰めるものが欲しいんですよ。

そこで、昔はね、江戸時代からざっと20年くらい前までは、読み物が便利なメディアとして存在していた。

戦後、漫画雑誌やテレビが広まっても、知的なメディアとしての存在意義はあったんですよ。映像のような受け身のメディアは長い間見ていられない、と、私みたいな人とかね。

ところが、今や! いくらでもあるんですよ。インターネット上に、お手軽に気を紛らわせる手段が。テレビも、ますます気を紛らわせるためのコンテンツになっています。

あれは、散らせるためのスタイルです。憂鬱を散らせてしまえ、と。

昔は、居酒屋とか、床屋とか、井戸端で片付いていたんですけどね。

今は、文字にしてしまいます。放談で虚空に消えていくだけでは済まないんですよ。

文字の力を侮(あなど)っていますね。

文字にするということは、記録される、刻み込まれることなんですよ。

インターネット上の匿名で行われる「コメント」も。「コメント」を一方的にするだけと言う現象が起きているのは、「コメント」が批評として、対象に愛情を持ちながらしているわけではなくて、自分の満足のために「コメント」しているわけです。

「コメント」も茶化すようなのばかり。
だから、ネタに逃げる。アート系のイベントは、「ネタ」的なものや一発芸的なものが多い。実際のアート作品の事じゃないですよ。
「コメント」で、双方を満足させてしまう状況をwebが作ってしまったんですね。
己の内でカオスを抱え込むから、言葉が生まれるんですが。

たまに、クリティカルなコメント、つまり批評になっているのがあるので侮(あなど)れないんですが。

一つのものだけが売れる理由

そんなわけで、小説、しかも、エンターテイメント性のない小説は読みません。

売れるものは、売れます。当たり前ですが、今のWEB時代は、一つだけに集中するという現象が起きます。

皆が平等に同じ情報を得ているからです。もちろん、そうして、スマホでもパソコンでも、得られた情報は古びて、情報発信者が得るものは得た後で出されているんですがね。

ウインドウズやグーグルのように、皆が使っているから、もしくは、優れているから使う。と言うことが一つ。

もう一つは、好いものは自分も手に入れたいという、太古から収まらぬ人間の欲念から生じたものがあります。

今は、何が流行っているか簡単にわかります。当たり前です。

WEBで流されるニュースを選ぶ人の募集で、「ユーザーに刺さるニュースの選定や、情報収集が出来る方」を募集しているわけですからね。

それで、一つものに集中する。残念ながら、そこに批評も選定もありません。

すでに、流行ではなくて、四六時中、起きている間は、変化を求めずにはすまない。

スマートフォンで情報を求める以上に、変化を求めているんですよね。

「何か、更新されていないかな」と。つい、2chのまとめサイトを見てしまいます。自分の更新されない日常にたえきれませんね。

祭まで待てないんですよ。

義務が多すぎる。自分で決めなきゃいけないことが多すぎる。

そして、自分で決めた事は、自分で背負わなければならない。と言う社会ですからね。

逃げたくなりますよね。

最近、歩きながらスマートフォンをいじっている人が増えましたがね、なかには、イヤホンをつけて片手に持ちながら、ちらちら見て歩いている方がいますが、なんというか、スマートフォンがなければ、生命を維持できない状態に見えますね。コードは、心臓につながっているんじゃないかと。

メディアはもはや、自分の感情を慰めるための物が受け入れられる。と言う状況になっていますね。「共感できる」とは、そう言う事ですよ。

「コメント」する方も何かを作り出すということであれば、クリエーターと消費者の数がほとんど同じになっていますね。

ますます、専門化していきます。

一つのものがはやるとそれに思考が少しずつずらされていく。本当に少しずつ。

みなで買う、見るという祭

一つのモノだけに集中して売れたり、また見られたりするという現象は、これ、人々は祭り気分で参加しているのではないでしょうか。

もともと百貨店という百貨を陳列して売る店がパリで出現したとき、そこに行くことそのものが祝祭であり、非日常気分だったわけです。

百貨店の作り、特に一回の大階段や吹き抜け、シャンデリア、上から一階の売り場を見下ろす、その構造が王宮を模倣しているわけです。

日本でも70年代くらいまでは、百貨店に行くことが、『お出かけ』だったわけです。

丸井あたりが流行りだしてからですかね。それが薄らいできたのは。

むしろ西武百貨店というか、パルコかもしれません。

丸井にしても、パルコにしても、王宮を模した造りになっていません。

大階段もなければ、ライオンの像もいないわけです。

それが、百貨店で祝祭気分を味わえなくなった。

百貨店のモノの種類、または値段の高さが言われていましたが、一つは百貨店というものは、そこにある祝祭気分を売り物にしていたわけです。

祝祭気分を感じられる場所が分散する。

人々は休日に祝祭気分を感じたい。

イベントであったり、食事であったり、テーマパークであったり、イルミネーションであったり、それは祝祭なわけですから、記念であり、カメラに収めます。

百貨店に行って写真を撮る人はまずいませんでした。

しかし、祝祭気分もまた薄らいできていますからね、カメラでとって、写真にして、固定化したいんですよ。

『これは祝祭だ!』『記念なんだ!』と。

伝統的な記念とはものが違いますから、実感として。

だから、写真に押されなければ自分で納得しないんじゃなかろうかと思います。

たいして興味もなければ必要でさえないものが売れているから、というそれだけの理由で手に取ってしまう。祭に参加するわけです。

一昔前、休日になると、用もないのに駅前に行けばなんかあるんじゃないかといって、ふらふら出かけていた大衆と脳の働きは変わらないんじゃないでしょうか。

それがネットになっているだけですから。

それは、あたかも祭の縁日で、ふだんのまともな頭なら手にしないような、その辺の飲食店やおもちゃ屋でわざわざその値段を出して買うかというような行為をしてしまうのも、祭の興奮がなせる業です。

興奮しているわけですよ。祝祭、カーニバルなわけですから。

もう、必要のためではなく、欲望のために買うわけですよ。それは大量生産が始まってからずっとですが、その情報の受け取る側の数が増えているわけです。

もっと言えば、情報と広告の区別がつかなくなっているわけです。

twitterに流れている『情報』に広告が混ざっていますよね。あれ、同じライン、つまり同じレベルで存在というより、混入させているわけです。

そうして、広告を見たがらない人にも見せてしまう。

ただ、ネットでもSNSでも、全ては広告の体裁、手法をとっている以上、情報も広告化しているのですが。

もしかしたら、こういう行動も幼稚化として考察できるのかもしれません。大人は『ふうん、そういうものが流行っているのね』と、さらりと言うだけで、自分の好みに合ったものを手にしますから。

欲望の持っていきどころを探っているわけですよ。常に、噴出しようとする欲望を押さえつけていますからね。大衆という名でくくられた労働者は、現代において、社会の変革に参加しないように仕向けられているわけでして、それなら、本来というか、かつて行われてきたような祝祭の気分をどこに持っていくのか。

これが今の消費なわけです。

人々が生ずる欲望を片っ端から消費に向かわせるというコントロールをするわけです。

『文化』と呼ばれるものにしても、その文化の規範を示してくるわけです。センスというものや感覚的なものでさえ。

人々は、消費することで生活をしている実感を持ち、また『人生設計』も行うわけです。

欲を刺激される情報を見続けていたら、まともな思考する頭ではなくなるのは「意志の力」に限りがあるからということですよ。

『どうしようか』、『いかんせん』が長く続くと脳がくたくたになります。

小学生が話題についていくために、テレビを見たり、ゲームを見たりする。
これと同じ行為を大人もしているわけです。

これもまた人間の習慣ではあります。

ネットに氾濫する情報を見れば、『自分もやりたい』、『自分も欲しい』と思わずにはいられなくなりますね。
しかしまあ、たいていのものは難しく、そのできなさにむしろ哀しみが深まるばかりでしょう。

そしてその哀しみを慰めるためにまた、ネットで情報を探し続けるという。
しかし、これ、これってのは今の世の中と言いますか、そこに生きる人間の生活様式ですが、これ一生こうやってネットを使い続け、見続けるんですかね。

一生、グーグルやマイクロソフトの拵えたものを使うんでしょうか、皆さん。

華やかな世界に憧れる

近代になって、大量生産が可能になり、それまでは金持ちだけに限られていたような日用品が庶民にも買えるようになった。それに伴い、作る方でも新たな生活様式を提案しつつ売っていたわけです。

今、広告が『新たな生活様式』を提案しています。

広告としては新しいものに価値を見出させようとするわけですから、『新しい』ことをアピールするわけですが、どうも、大して何が変わるわけでもないものをそのように言っている気もします。

新たな生活様式のための物を買わせようとするというよりも、むしろ、消費させ、しばらくしたらそれを捨てる前提で物を売ろうとしているようにさえ見えます。もう少し穏当な風に言えば、消費を促す、そのもののために売っているのではないかと。会社はもちろん、デザイナーもコピーライターも一丸で進めるわけです。

今、『文化』というカテゴリーでくくられるもので、大量の人々の消費を期待せずに行われている、もしくはせめてわざわざ消費に結びつけようとしないものがどれほどあるかということです。

まあ、蕩尽レベルの消費をするのであれば、それは文化といえるものなんですが。

無駄な買い物をして、欲望を発散させておきつつ、ネットでそれを中古品として売りさばく。

それではただの商売ですから。

大衆は、消費をさせられる、より言えば、広告によって、何かしらの欠如感を気づかされ、ありもしない幻想なのですが、そうして、何かを手にすることで欲望の持っていきどころを探る。

広告が人々の欲望を管理統制しつつ、人々のうっぷんを消費という行為で解消させる。

新しいものを次々と売り出す手法は、社会を変革させずに、このままの日常を続けさせながら商いを活性化する手法なわけです。

デザインを新しくしたら、いきなり売れたと言って、はしゃいでいる場合ではない気もしますが。大衆にとっては、それが機能や中身も変わったかのように錯覚してしまうんですよ。

自分の影響が強くなるほど、活躍するほど、自分は社会に対して、見知らぬ他人に対して本当のところで何をしているのかを考える必要が出て気はしないでしょうか。

『子供はすぐにまねをする』と大人は言いますが、青年期も含めた大人の方がむしろ芸能人のまねをしているんですよ。

かつての王侯貴族のまねが、今や芸能人になっただけで。

皆、華やかな世界に憧れますよね。

特に社会の仕組みを知らない、青少年が。

憧れて、自分もなりたい、少しでも近づきたいと思って、自分のセルフイメージを狂わせ、その幻と戯れることで、大切なものに気づかないわけです。

身近にあるもの、生活ですよ。

憧れの要素は、所有欲と保護者意識、それと何かよくわからぬ自信ですよ。

これで、人々は『投げ銭』をするわけですから。

アーティストに、ミュージシャンに、クリエイターに。

いかれたメンタル

かつての貴族は世襲でした。

今の富裕層もそのきらいがありますが、そうでなく活躍している人々がほとんどです。

その華やかな世界で。

そういう方々は、特殊なんですよ。

自分の生活とは、相容れない、それこそ、コーヒー片手に、せんべいでもかじりながら、消費するべき対象に過ぎないんですよ。

自分のリアルに入れ込むべき対象ではない。

本来、消費者が神様気分で消費していればいいものを、むしろ逆に信者のようになってしまう。

このへん、説明はいくらでもつけられるんでしょうが、人間の脳を放っておくと、どうしても権力に靡くようにできてしまっている。

それを利用して、ウハウハしていられるのは、やはりよほどのメンタルといわざるを得ません。

よく、『メンタルが強い』なんて、言いますが、世の中で、活躍しているような、芸能人、ミュージシャン、アーティスト、経営者は、あれ、『メンタルが強い』のではなく、メンタルがいかれているんですよ。

『会ったらいい人だった』という話もよく聞きますが、そりゃ、他に人がいたり、自分の欲望の対象にできそうだと考えたりしているにすぎません。

利益(時間の都合や気分さえ含む)を害さない範囲で『いい人』なわけです。

『傲慢かつ支配的』が彼らのキーワードです。

丁寧さや親切、さらには『才能』でさえ、それを隠すための手段にすぎません。

彼らの本当の目的は、『傲慢でいること』、『支配すること』ですから。

閉鎖空間に二人だけで長くいたら、本性を発揮しますよ。彼ら、人間関係というか、コミュニケーションにおいて、『瀬戸際』というものを知りませんから。

冷静になれば、論理が論理になっていない。だから活躍できるのでしょうが、それで生きてこられてのは、その時々の柔軟な人たち、優しい人たちを多かれ少なかれ、避けさせ、苦しめてきた結果に過ぎません。

大人になり、それを知った暁に、若いころ、自分が熱狂していたもののほとんどがあれ、異常者だったんだな、と、悟る日が来るわけです。

祭の日の主役レベルの異常なわけですが、今や祭の熱狂は薄まり、日常化してしまった。

日常化してしまった宗教の祭典のようなものですよ。

祭の日に宗教儀式の主役になるだけなら、共同体の役に大変立つわけですが、日常にいられると、その攻撃性が出やすいわけです。

それを商人が『神話化』して商いに使う。

そういう構造です。

そのようなメンタルのいかれている連中にとっては、人々が分相応に楽しみを見出して生きてゆくと、困るわけです。

そこで、ネットやメディアを通して、いい暮らしを『自慢』して、さも充実しているかのように見せかけます。

しかし、その充実は、普通の人々に欠落感を与え、その欠落があるかのように仕立てた部分で成り立っている虚構ですから、そこにいくら人々かエネルギーを注ごうとも、むなしい一時の優越感以外には得られないのです。

若いうちから、お金も時間も自分のために大切に使いたいものですよ。

優しい人、周りのことをつい考えてしまうような人は向いていないと、その辺も含めて学校で教えた方がいいんじゃないでしょうか。

芸能人を呼んで、教職員も一緒に浮足立っている場合じゃないんですよ。

個人的に高校で広報などをやっていると、芸能人などを呼んで、講演などしてもらう機会もあったのですが、何と言いますか、プロパガンダというか、ハーメルンの笛吹き男かと、端から見て、思っていました。

しかし、人間の脳が権力に憧れる方にできてしまっているのなら、相当に難しいのでしょうが、しかし、それをどうにかするのが教育なんだと思いますけどね。

しかし、まあ、教職員がまともな人格で、青少年を覚醒してしまったら、ほとんどの専門学校はやっていけなくなるかもしれませんね。大学もか。

価値観の均質化

芸能人が『バサラ』といいますか、『傾奇者』としてふるまう。

それをいい大人が、何かしらの記念や出来事ごとに、経済力を手にしてまねをする。

10円玉握りしめて駄菓子屋に入る子供と何が違うのでしょうか。

もし、カメラがなかったら、SNSがなかったらそういう無茶をするのでしょうか。

例えば、ある場所に行こうとして、もしカメラを忘れたら、行くことが無意味だとさえ思うことはないでしょうか。

行って、撮影して、SNSに出す。恰も仕事のようです。

人々は消費をし続けますよ。

祝祭の逸脱も蕩尽もない社会で生きていくわけですから。

しかも、『文化』という名を用いた生き方の管理統制で価値観が均質化しているわけですから、市場における消費しかないわけですよ。

経済力に応じてミニチュア化した貴族的退廃を過ごせるわけですね。

かつて、戦争が行われていた際、初期はともかく、激しさを増すにつれ、民衆の状況から目を逸らすかのように乱痴気騒ぎをしていた。日本もヨーロッパです。

今だって、その精神は受け継がれているんじゃないでしょうか。

価値観が均質化するということは、経済力による価値観の統一化ということになり、それが平等な社会へ導くということは、一人一人の心がけ次第ということになり、つまり人間の脳が進化しないと、いうわけですが、それはもうホモサピエンスからの進化ということになりますよ。

価値観がバラバラだからこそ、人はさまざまに喜びを見出すのであって、一つの価値観、特にたやすく数字に置き換えられる価値観に吞まれたら、序列が、つまりは優劣感と劣等感のせめぎあいが、リアルな日常に持ち込まれてしまうということですよ。

ネットで動画やニュースを見るのでさえ、観劇や道化の出し物の超廉価版なわけですよ。

ネットを見れば道化には事欠きませんからね。

私も財力に任せて、快楽に浸りきってみたいなホ~

正解探しの癖がついてしまった大人たち

ネットを見てしまうのは、そこに、自分の利益になるものがありそうだという心理があるからです。

『FOMO(fear of missing out)』という症状があり、情報を『見逃すことのの恐怖』から、見ないと、あたかも損をするのではないかという不安に駆られてしまうのです。

ネットにより、たやすく努力もなしに情報は入るようになりました。
しかし、それでけ、自分が世の中の情報、他の人々が得ている情報を得ていないのではないかという不安も生じるようになってきました。

昨今の一つの売れるものやイベントに集中してしまう現象は、宣伝技術が上がったわけではなく、ネットで、『自分が情報を得られていないのではないか』という不安に常に追われ、『得られるのに、得ないと損なのではないか』という焦りを抱く癖がついてしまったからではないでしょうか。

2023年7月27日に江戸川で行われた花火大会には77万人が訪れたらしいです。
島根県の人口が67万人ですよ。

他にも、行列など想定していなかった美術展に初日から行列してしまい、整理券を配布したり、予約制に変更したりすることもありますから。

パンデミックの反動かと思いきや、その現象が続いている。

パンデミックの時期に、人々が家にこもり、ネットニュースやSNSを見続けた。
見続けて、情報を求め続け、正解を求め続けた。

もう、脳がそういう風に出来上がってしまったんじゃないでしょうか。

パンデミックは終わり、引きこもる必要もなくなり、ネットも見続ける必要もなくなったのに、『正解探し』の癖がついてしまった大人たちは、情報を手にし続け、それを比べ、自分にとっての利益をスケジューリングする。

そういう習慣を身に着けてしまったらしいですね。

大手検索エンジンやSNSは商売ですから、より多くの人々に見てもらうことが第一の目的で、より多くの人々の心を平穏なものにするために運営しているわけではありませんよ。

人の脳の弱点を突いてくるようなビジネスモデルをしているわけですから、見れば見るほど、もしくは、一度開けば、いくつものコンテンツを見たくなるような仕組みにしているわけです。

特に、人々の感情を揺さぶりやすいような、悲観的なものや攻撃的なコンテンツや投稿をためらいもなく検索結果に出したり、フィードに上げてくるようにしているのです。

そうしたコンテンツを見ると、脳は、ちょっとしたストレスを感じます。
そのストレスを紛らわせるために、更にまた別のコンテンツを見たくなるわけで、検索エンジンも、SNSも、そうした人間の心理を付いてくるように、さらに、何の努力もなく、タップをするだけで、さらなる刺激的で、しかし内容のないコンテンツ、人々の生活になんら利益を与えないようなコンテンツを示してきます。

常に、『アップデート』と称して、その実、利用者の時間や心までも支配し、自分たちに依存するように機能を変え続けているのです。

世界的なテック企業も、やっていることは週刊誌と同じというわけです。

大衆週刊誌の下種な見出しには眉をひそめて、手に取らないのに、大手検索エンジンの結果やSNSを見続けるのは、それが『公正』の殻を被っているかのように見えるからにすぎません。

そこに、自分のストレスや人生の答えがあるかのように、擬態をしているからにすぎません。

週刊誌の登場人物と、自分は、関係ありませんよね。
それと同じなんですよ。
ネットニュースやSNSの登場人物は、まず、利用者には関係ないんですよ。
そこにあるものは、ほとんどが自分とは生涯関わることのない他者にすぎませんから。
勝手に、利用者がそこに『物語』を見出し、お話を聞かせてもらいたがっているだけなんですよ。

テック企業のシステムは、まさに服従の時代ですよ。
相手はコンピュータですからね、融通が利かないんですよ。
『ちょっとそこは融通聞かせてくれないか』ということをしない。

テック企業もその人間の心理をいい事に、利用者が服従してくれている状況をまた商売につなげていくわけですよ。

別に、企業のシステムはあなた個人を見ているわけではありません。
ただ、あなたがお金を使いそうな物を示し、儲けるためにあなたの時間や集中力を奪おうとしているにすぎません。

悪いのは、ネットやSNSに依存してしまう自分ではないのです。
そうした人間の脳の弱点を突いてくる商売をしながら社会的責任を果たさないテック企業が悪いのですから、自分を責めてはいけません。

人類はいい加減に宗教を卒業してもいいんじゃないかと思っていましたが、いつの間にか、情報が宗教の代わりになっただけで、救いを求める心は何も変わらないのかもしれません。

これからは、「体験」を伴わないものは、売れないだろう。

アイドルにしろ、「特定の何かを神聖視する心理」が働いている。

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